レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年02月08日
- 登録日時
- 2021/01/28 15:03
- 更新日時
- 2021/02/16 11:41
- 管理番号
- 相-200001
- 質問
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解決
1.現在の能舞台には舞台での足踏みの響をよくするためにかめがいけてありますが、これはいつだれによって始められたものか。
2.建物内で劇場椅子が配された近代能舞台以前は、見所の人々はどのようにして観態していたのか。
- 回答
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1.舞台下の甕について
いつ、誰によって始められたかについて明確に説明している資料を見つけることは出来ませんでした。
・『能楽堂の音響に関する研究』十倉毅著 十倉毅 1989
p.18に「カメの据え方の変遷」の図があります。変遷図はありますが、はじめた人や詳細な説明はありませんでした。またp.17に「能楽堂の音響に関するアンケート調査結果」があり、厳島神社能舞台の床下にはカメがないことが記載されています。
・『国宝能舞台』北尾春道著 洪洋社 1942
p.35~36に「舞臺」の項があり、床下のカメの変遷について記述されていますが、始めた人については記述がありませんでした。p.50に上記『能楽堂の音響に関する研究』と似た図が記載されています。
・『日本劇場史の研究』須田敦夫著 相模書房 1957
「第七篇 室町時代」「第六章 能舞台起源攷」のp.206~208に「第三節 能舞台の発達過程に於ける他建築様式の影響」があり、p.207に「桃山時代の能舞台には単に下に甕が地表に横転しているだけであるという事実もあり(次篇第四章参照)」とあります。「第八篇 安土・桃山時代」「第四章 本派本願寺の催能場」のp.226~229に「第二節 白書院前庭の奥能舞台」があり、「舞台の床下は(中略)直径三・五尺の甕七個を不規則に横転せしめている」とあります。
2.近代能舞台以前の見所について
・『日本劇場圖史 第1冊』竹内芳太郎著 壬生書院 1935
巻頭から始まる図版の「第五〇圖」に「慶長期能舞薹圖」があり、「客席には筵らしいものを用ゐてゐる」という記述と観能している絵図があります。
また、「第六七圖」に「町人能之圖」があり、徳川将軍が城内の能舞台で催し町人に公開した能の絵図が記載されています。「白洲が町人の見所となり、将軍や諸大名以下の武士は御殿から觀覧した」という記述もあります。
その他、いくつかの能舞台の絵図が記載されています。
・『厳島の祭礼と芸能の研究』原田佳子著 芙蓉書房出版 2010
p.197~201に「(一)厳島神社の能舞台」があり、「現在の能舞台(図45)は西廻廊につながる楽屋から橋掛かりが出、コの字型の西廻廊に囲まれるように海上に設置されている。廻廊がそのまま見所となり、神社境内で能舞台を設けるには最良の場所といえる。従ってこの能舞台の位置と構成は、当初よりほぼ踏襲されて来たものと思われる。」とあります。
・『能舞台の世界』小林保治、表きよし編 勉誠出版 2018
p.29~30に「舞台の変遷」があり、舞台と見所の時代ごとの変遷について記載されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 能楽.狂言 (773)
- 参考資料
- キーワード
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- 能舞台
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000293076