レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年10月27日
- 登録日時
- 2021/02/13 15:34
- 更新日時
- 2022/04/15 17:40
- 管理番号
- 京歴-574
- 質問
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石田梅岩の師・小栗了雲について知りたい。越後の高田藩のお家騒動に関わり、京に逃れてきたらしい。
- 回答
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『京都市姓氏歴史人物大辞典(角川日本姓氏歴史人物大辞典;26)』(①)p.213「小栗了雲」の項がある。それによると小栗了雲は、江戸中期の普化宗の僧と推定され、京都に隠棲して性理学・仏典・老荘の学問に通じて生徒を教授していた。石田梅岩と会い、梅岩の心学思想形成に影響を与えたことも書かれている。
『近世思想家文集(日本古典文学大系;97)』(②)p.355に「この小栗了雲なる人物は、代々越藩の武士であったが、父正宗以来浪人し、京都に隠棲していた。梅岩より17歳の年長だが(略)」とあり。
『教育家としての石田梅岩』(③)p.58に、梅岩の弟子・手島堵庵による了雲の小伝が載っており、「(中略)其先世為越藩大夫也。父正宗坐于其大宗美作之事。免而隠於京師也。(略)葬於京極永養寺中云。」と、先祖は越後藩の家老であったが、父の正宗の代に、小栗美作が起こした事(越後騒動)に連座して、京都に隠れ住んでいたことが書かれている。
p.59には、永養寺(京都市下京区)にある了雲の墓の写真が載っている。
「了雲は黄檗派の禅学を修めた人であるらしい。其の師は不二庵主禮柔禅師である。「不二座下 了雲全覚居士」とあり。」との記述あり。
インターネットで公開されている論文「石田梅岩の真髄と現代に伝承される石門心学」(④)(「大阪経済法科大学地域総合研究所紀要」11号)p.21に、「なお、小栗了雲は、越後騒動で将軍綱吉より切腹を命ぜられた小栗美作の親族であり、京都で世を憚った生活を送っていた。かつて黄檗派の禅学を修めたとのことである」とある。
https://keiho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=33&item_no=1&page_id=13&block_id=21
(最終確認日:2022-04-15.)
- 回答プロセス
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当館の蔵書検索システムでキーワード「小栗了雲」を検索したが、該当する資料は出てこなかった。
国立国会図書館オンライン( https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/ 最終確認日:2021-02-13.)でキーワード「小栗了雲」で検索すると、『仏教研究論集』(「小栗了雲事蹟考(柴田実)」所収)、『石田梅岩(人物叢書;第94)』(「小栗了雲との邂逅」所収)が出てきたが、どちらも当館では所蔵していなかった。
人名辞典①を調べた。
当館の蔵書検索システムでキーワード「石田梅岩」を検索し、出てきた②③に関連する記述があるのを見つけた。
インターネットでキーワード「小栗了雲△越後」、ファイル形式をPDFとして検索し、④を見つけた。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289)
- 参考資料
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- ①『京都市姓氏歴史人物大辞典(角川日本姓氏歴史人物大辞典;26)』京都市姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編著 角川書店 1997 (当館請求記号:K1||288.1||Ka14||)
- ②『近世思想家文集(日本古典文学大系;97)』家永三郎[ほか]校注 岩波書店 1978 (当館請求記号:Y||918||017776||)
- ③『教育家としての石田梅岩』岩内誠一著 立命館出版部 1934 (当館請求記号:K1||372.8||I97||)
- ④「石田梅岩の真髄と現代に伝承される石門心学」(「大阪経済法科大学地域総合研究所紀要」11号)
- キーワード
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- 小栗了雲
- 石田梅岩
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000293805