レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20150527
- 登録日時
- 2020/01/17 00:30
- 更新日時
- 2020/01/17 00:30
- 管理番号
- 0001002338
- 質問
-
解決
「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」の出典を知りたい。
- 回答
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「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」の出典には、諸説ある。
①
『沖縄コンパクト事典』(琉球新報社 編・刊、2003.3)
p324 「命どぅ宝」の項目で、「出典は琉歌の「戦さ世んしまち みるく世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」。」の記述がある。
②
『琉歌註釈』(喜納 緑村 [著]、琉歌研究社、1965.11)
p188 「尚泰王 いくさ世もすまちみろく世もやがて、嘆くなやう臣下命どたから。」の琉歌がある。
③
『山里永吉集[複製本]』(山里 永吉 著、沖縄県立図書館、2012.3)
p245-289 「那覇四町昔気質 四幕」で、p289 「尚泰王 戰世も濟まち、彌勒世もやがて、嘆くなよ臣下命ど寶。」の琉歌がある。
④
『沖縄文学の諸相』(仲程 昌徳 著、ボーダーインク、2010.2)
p143-176 「王国の解体 ―「首里城明渡し」をめぐって」の項目で、p170-171 「…大野道雄は、次のように書いていた。ところで、現在上演される「首里城明渡し」の大詰めは、東京へ連れられて行く尚泰の那覇港別れの場であり、「戦さ世ん済まち/弥勒世んやがてぃ/嘆くなよ臣下/命どぅ宝」のつらねで有名になっている。ところが、山里永吉の原作には、この場面はない。口立てのため、沖縄芝居の脚本にはのこっていないのが普通なのに、山里の作品は共通語で書かれた脚本が残っていて、これも画期的であるが、それで見ると、原作には「命どぅ宝」の琉歌もなければ、散山節も書かれてはいない。真境名由康作の「国難」には「命どぅ宝」の歌が出てくるが、この場合は尚泰ではなく、薩摩に連れていかれた尚寧で、場面も首里城内となっている。同じ山里の「那覇四町」には尚泰の那覇港別れの場面があり、「命どぅ宝」の歌も、散山節の指定もあって、現在のラストにもっとも近い。山里本人が一九三二(昭和七)年の「琉球新報」に作者後記として「那覇四町」の「大詰に散山節がはいって幕になるが、私の戯曲として最初の試みである」と書いているので、いつのまにか「那覇四町」が「首里城」に紛れ込んだらしい。」の記述がある。
⑤
『日本東洋文化論集 第14号』(琉球大学法文学部 編・刊、2008.3)
p1-28 「「首里城明渡し」小論 仲程昌徳」の論文もある。
→p23-24 参考資料④と同じ内容。
⑥
『琉球新報[マイクロフィルム複製本] 2000年7月16日~31日』([沖縄県立図書館(製作)]、2015.3)
p272 「「命どぅ宝」異聞 大城立裕」の新聞記事で、「「平和の礎」でクリントン米大統領が、「命どぅ宝」の文言を「琉球の最後の王、尚泰が詠んだ詩」として演説に引用したことに対し、「尚泰王作は俗説」と指摘する一文を作家の大城立裕氏が寄稿した。…「私が気づいたのは、山里永吉の琉球処分シリーズの戯曲群である。『山里永吉集』(一九三三、新星堂書房)で調べてみた。 「那覇四町昔気質」(初演は喜納著に半年先立つ一九三二年三月)で、劇の幕切れに尚泰王が東京へ発つ船の上で詠むことになっている。それが最近の上演では、やはり山里の「首里城明渡し」に入っているようだが、これは演出で焼きなおしたものだろう。歴史文学というものは「罪」なもので、フィクションが実話にされてしまう惧れがある。…作者は山里永吉でもなく、尚泰に扮した名優・伊良波尹吉である可能性が高い。山里の戯曲は日本語で書かれているし、尹吉は芝居のために琉歌を何千と創っているらしいからである。さらに、歌をよくよく吟味してみれば、奇妙なことに気がつく。 「いくさ世もすまち」というが、ではどの戦かという疑問がまず生じる。琉球処分を戦争に比するとは大袈裟だ。そのせいかどうか、戦後しばらく尚寧王作という説がはやった。それなら、薩摩侵入のことかと、なかば納得がいかないものでもない。しかし、ここではまた、二つの疑問が出る。ひとつは、絶望のどん底にいた尚寧王が「みろく世もやがて」という希望を持ち得たか、ということ。もうひとつは、この時点で八・八・八・六という琉歌の形式が完成していたか、ということである。私は九割以上、伊良波作と信じているが、「命どぅ宝」という句も、とってつけたようで、上作とはいえない。」の記述がある。(2000.7.23 4面)
⑦
『沖縄大学地域研究所紀要年報 1997年度 No.10』(沖縄大学地域研究所 [編]・刊、1998.3)
p89-100 「演劇に見る琉球処分 「首里城明渡し」と「世替りや世替りや」を中心に 与那覇晶子」の論文で、p91 「真喜志方言台本には、第六幕が付け加えられている。東京に出発する尚泰王の見送りの場面だ。そこでうたわれる尚泰王のつらねが印象的である。「戦さ世ん 終わてぃ 豊世んやがてぃ 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」このつらねは、散山節の中でもうたわれているが、真喜志によると、この名台詞は他の芝居、例えば慶長十四年(1609)の薩摩侵入を題材とする「国難」でも登場するとのことである。山里自身が演出した戦前の珊瑚座の舞台にこの第六幕はなく、真喜志の話によると、アンマーたちの好み、つまり、観客の好みで付け加えられたとのことだ。この尚泰王が読んだといわれる琉歌は、「首里城明渡し」の2年後に書かれた日本語版テキスト「那覇四町気質」の終幕、尚泰王が東京行きの船に乗る前にもうたわれている。大城は「この琉歌は山里の作ではなく、伊良波尹吉の作だと思う」と推察している。(5)」の記述がある。
p99 「(5)大城立裕が電話をとおして話した内容である。氏によると尚泰王ではなく、尚寧王ではないかという説もあるが、慶長十四年の薩摩侵入の時の琉球にはまだ、8、8、8、6の琉歌はできていなかったので、江戸に強制連行された尚寧王に、「豊世んやがてぃ」と読む可能性はなかったとの事だ。船越義彰との一致した考えとして、伊良波尹吉の作であり、山里が、それを「那覇四町気質」に剽窃したと思われる、とさらに付け加えている。」の記述がある。
⑧
『沖縄県史料 前近代8』(沖縄県沖縄史料編集所 編、沖縄県教育委員会、1995.3)
p645-655 「屋慶名大主敵討」の組踊で、p650 「浜村 …ハア此世人間ヤ命ド宝ラ短気腹立ヤ軽我ノ基ヒ」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 言語 (8)
- 参考資料
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- 沖縄コンパクト事典 琉球新報社/編 琉球新報社 2003.3 , ISBN 4-89742-050-4 (p324)
- 琉歌註釈 喜納 緑村/[著] 琉歌研究社 1965.11 (p188)
- 山里永吉集[複製本] 山里 永吉/著 沖縄県立図書館 2012.3 (p245-289)
- 沖縄文学の諸相 仲程 昌徳/著 ボーダーインク 2010.2 , ISBN 4-89982-168-7 (p143-176)
- 日本東洋文化論集 第14号 琉球大学法文学部/編集 琉球大学法文学部 琉球大学法文学部紀要 2008.3 (p1-28)
- 琉球新報[マイクロフィルム複製本] 2000年7月16日~31日 [沖縄県立図書館(製作)] 2015.3 (p272(2000.7.23 4面))
- 沖縄大学地域研究所紀要年報 1997年度 No.10 沖縄大学地域研究所/[編] 沖縄大学地域研究所 1998.3 (p89-100)
- 沖縄県史料 前近代8 沖縄県沖縄史料編集所/編 沖縄県教育委員会 1995.3 (p645-655)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000272626