レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年4月13日
- 登録日時
- 2019/05/05 14:29
- 更新日時
- 2019/07/25 12:27
- 管理番号
- 2019-5
- 質問
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未解決
周防灘の姫島から国東半島南の守江港を経て堀江港に黒曜石を運んでいたことに関する資料があれば知りたい。また、黒曜石に限らずその他の物品に関する資料でもよい。
- 回答
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見つかりませんでした。
- 回答プロセス
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【資料1】p461- 石器交易
(略)このサヌカイトは香川県の国府台や金山から船で松山平野の和気浜を経由して搬入されたものである。松山平野名南部の遺跡に比較してサヌカイトが豊富なのは、海上交易によって得たものであることを証明している。サヌカイトにつづいて使用されているのが姫島産黒曜石である。姫路産黒曜石(原文まま)は主として石鏃用ではないかとみられるが、剥片が200余点発見されているので、これも姫島と祝島、水無瀬島、由利島、興居島を結んだ最短コースの黒曜石ルートを通って搬入した原石を用いて、この地で加工したものであろう。
【資料2】
堀江港ではないが、愛媛県における姫島産黒曜石の交易について書かれている。全文をweb公開している。
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/20/view/3008?keyword=%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3
【資料3】
p70 古代からの海路の要所「堀江海岸」と「一文字防波堤」
堀江海岸は瀬戸内海の交通の要所として、遠い昔から利用されてきた。大和時代の200年、神功皇后が三韓を攻め、貢物を出させて帰る途中、堀江に船を泊めている。(略)室町時代には、伊予国の名門河野氏が領主として将軍や守護たちとの交流や地域的経済圏における交易の外港として堀江の浜を使用している。(略)江戸時代の1635年、松平定行が松山藩主となった後は、貢米や牛馬の皮、塩田用の燃料としての松葉や薪などの積み出し港となるなど、港の使用も次第に頻繁になっていった。1728年には、和気浜村片岡で製塩がはじまるが、この塩も大洲領、宇和島領のほか国外の日向国や豊後国、肥後国に向けて、すべて堀江港から積み出された。
以下の資料を調査したが、該当なし
『漫歩堀江』「高木喬太郎」1978
『河野氏の盛衰とほりえゆかりの史跡 中世伊予最大の豪族』松山市堀江公民館 2002
『ふるさとほりえ学びの窓 歴史文化三択問題』松山市堀江公民館 2004
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『松山市史 第1巻 自然 原始 古代 中世』 松山市 1992 <当館請求記号:K231-49-1>
- 【資料2】『わがふるさとと愛媛学愛媛学セミナー集録 平成5年度』 愛媛県生涯学習センター 1994 <当館請求記号:K290-99>
- 【資料3】『ふるさとほりえ発見の旅』 松山市堀江公民館 2000 <当館請求記号:K293.1-フル-2000>
- キーワード
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- 黒曜石
- サヌカイト
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000255632