レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年02月01日
- 登録日時
- 2018/03/30 14:51
- 更新日時
- 2020/04/17 14:09
- 管理番号
- 島根郷2018-02-001
- 質問
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解決
広瀬藩の参勤交代について、かかった日数や通った道筋などが知りたい。
- 回答
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当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。
資料1:p178-181「参覲交替」。
本陣と本陣との距離は約6里が標準であったので、これが一般的に藩主の一日の行程であったとする。
また嘉永4年(1851)8月の9代藩主・松平直諒(なおあき)の行列の構成が載っている。具体的な日数やルートについては記述なし。
資料2:p31-32「街道の名称と路線」に参勤交代についての記述あり。
広瀬藩の参勤交代の行列人数は40人内外の規模(士分30人内外・卒10余り)が普通であった。日程は23~24日程度かかった。
また、初代から10代(最終)藩主の参勤交代の回数の表あり。
初代の寛文6年(1666)から明治4年までの在任期間206年間で江戸と広瀬を32回往復したという。
この回数は松江藩に比べると少ないが、これは広瀬藩主が日光例幣使(勅使)や朝鮮通信使の接待役を命じられることが多く、その間は在府することが多かったためとしている。
道程(広瀬領内分)は下記の通り。
広瀬の藩邸→広瀬上町→石原→植田(御茶屋で休憩)→中島(飯梨川を渡る)→矢田・実松・飯生・利弘・沢→鍵尾峠(駕籠立て場で休息)→折坂(一本松で東に折れる)→伯太川を渡る→野外宇賀荘→清水峠(駕籠立て場で休息)→門生追分で山陰道に合流→吉佐(御茶屋で休憩)→伯耆国入り→伯耆溝口(宿泊)→美作新庄(宿泊)
p47-60「補説 上方街道(出雲街道)と法勝寺往還」のうち、p54-56「武家の旅」で参勤交代について記述あり。
広瀬藩10代藩主・松平直巳(なおおき)の元治2年(1865)の上府の時の道程を紹介。
広瀬→天万(泊)→根雨→新庄(泊)→勝山→久世(泊)→院庄→勝間田(泊)→土居→三ヶ月(泊)→觜崎→姫路(泊)→大蔵谷(泊)→西宮(泊)→伏見(泊)→守山(泊)→東海道経由で29日目に江戸着。
資料3:『旧島根県史編纂資料 近世筆写編』187-191巻に広瀬藩主各代の系譜あり。
参勤交代についても記述があり、出立日・道程などを簡単に記載する。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国地方 (217 8版)
- 参考資料
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【資料1】広瀬町史編纂委員会 編 , 広瀬町史編纂委員会. 広瀬町史 上巻. 広瀬町, 1968.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069494853-00 (当館請求記号 092.1/35※貸出禁止資料) -
【資料2】島根県教育委員会 編 , 島根県教育委員会. 島根県歴史の道調査報告書 第1集. 島根県教育委員会, 1995.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002471740-00 (当館請求記号 郷貸出291.7/シ/1) -
【資料3】旧島根県史編纂資料 近世筆写編 187 複写.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069468651-00 (当館請求記号 C1/2023/187 ※貸出禁止資料)
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【資料1】広瀬町史編纂委員会 編 , 広瀬町史編纂委員会. 広瀬町史 上巻. 広瀬町, 1968.
- キーワード
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- 広瀬藩
- 参勤交代
- 広瀬清水街道
- 出雲街道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000233829