レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20190712
- 登録日時
- 2019/12/27 00:30
- 更新日時
- 2020/03/26 12:13
- 管理番号
- 0401000951
- 質問
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解決
緑川沿いの櫨(ハゼ)並木について書かれている本は無いか。国道445号線の嘉島・御船インター間の川沿いにあった櫨の並木道は、40年前は20数本あった。並木が出来たのは江戸時代だと思う。
- 回答
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緑川の櫨並木について『城南町史』に記載あり。
・『城南町史』452p453p
櫨は、緑川廻江川の堤防をはじめ荒地や山畑の畔などに栽培されていた。櫨奨励の通達の初見は、寛文11年(1671年)10月と記載あり。
そののち熊本の町人・綿屋忠三郎が享保8年(1723)の冬に、郡方に上書して飽田郡春日村に薩摩苗を育て、それを宇土・菊池・松尾・高橋等に植えつけてから、次第に拡がっていったと記載あり。(原文そのままを抜粋)
・『熊本藩年表稿』より、以下の記載あり。91p
1671年寛文10年是月 本藩入国の初め運上を半減した楮・茶・漆・桑。櫨・茶運上の増額を建策す(家譜続)
寛文11年10月 櫨の栽培を藩内に奨励す(『城南町史』452p) 12月 諸郡野山などに櫨・楮などを仕立るよう促す(『大覚帳頭書』熊本大学所蔵)
・『改訂郷土史事典 熊本県』111p 元禄15年(1702)「大石良雄が手厚い接待にハゼを教える」112pに内蔵助の介錯人になった安場一平が切腹前夜に内蔵助の部屋を訪れた。その時、内蔵助は今回の手厚い持てなしに心から感謝して、お礼のしるしにと自分が赤穂時代に実験した櫨の栽培の事を物語った。そして「何も御礼することができないが、熊本藩でも櫨を栽培したら国益になりましょう」とすすめたという。これがきっかけで櫨栽培がはじまり、のちの櫨専売品になった」と記述あり。
133p 細川藩では宝暦年間(1751-64年)頃から藩財政を立て直すために櫨の実で蝋を製して大阪で販売する藩売制度が櫨方役所を中心に推進されるようになリ、櫨の樹が盛んに植えられていった・・・」
・『くまもと緑・景観協働機構』ps://flower-k.at.webry.info/201211/article_32.html(最終確認2019/7/11)熊本県内の櫨並木の歴史と写真が掲載されている。
- 回答プロセス
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・インターネットで検索する。キーワードは「櫨、江戸時代、熊本」→「くまもと緑・景観協働機構」のホームページに藩の政策で櫨を植えたことや写真が載っている。
宝暦櫨(ほうれきはぜ)その政策で植えた櫨のこと。
・『人づくり風土記 43』151p、『緑と清流と史跡の町御船』 12p
- 事前調査事項
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並木が出来たのは江戸時代頃。40年前は20数本あった。
- NDC
- 参考資料
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- 『熊本県公文類纂 3-128 道路堤塘 明治17年』 (櫨の並木|0140368705|/モコア/3-128-(1)/複製)
- 『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社/編,熊本日日新聞社,1982.04 (732頁 宝暦の改革|0111647095|C/031/ク/)
- 『城南町史』松本 雅明/編,城南町史編纂会,1965.07 (452頁 |0110358694|C/210H/マ/)
- 『改訂郷土史事典 43 熊本県』岩本 税/編,昌平社,1982 (111~113頁、132~133頁 櫨の歴史|0112055298|C/200.3/イ/)
- 『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会/編,細川藩政史研究会,1974 (91頁|0116659012|C/205/ホ/)
- 『人づくり風土記 43』加藤 秀俊/[ほか]編纂,農山漁村文化協会,1990.07 (151p|0140204553|C/290/ヒ/43)
- 『緑と清流と史跡の町御船』丹生 静男/著,御船町商工観光課,1972 (12p|0110589686|C/290/G/タ)
- 『新熊本市史 通史編第4巻』新熊本市史編纂委員会/編集,熊本市,2003.03 (367頁 櫨の請負い負担1806年(文化3年)|0119477149|C/210A/シ/4-2)
- キーワード
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- 櫨の並木
- 緑川
- 嘉島・御船インター間
- はぜ
- 宝暦櫨(ほうれきはぜ)
- 宝暦の改革
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271759