・『西粟倉村史 後編』(資料①)によれば、明治42年3月に大阪毎日新聞社主催により神戸湊川神社から大阪西成大橋までのマラソンが開催され、金子長之助が2時間10分54秒で優勝したことが紹介されている。
・「山陽新報」(資料②)では、次の記事内容が確認できる。
明治42年3月26日「山陽新報」5面
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岡山縣友會とマラソン優勝者
拝啓、御承知の大毎新聞社主催マラソン競争會は本月二十一日行はれたるが、
全國より應募者四百四名に達し、其内より資格の全きもの百三十四名を選び、
身体検査の上兵庫縣武庫郡鳴尾競馬場にて十哩の豫選競争をなさしめ、二十
名を得て、神戸湊川より大阪西成鉄橋迄二十哩の競争に第一者の名誉を荷ひ、
多大の商品を得たるは岡山縣英田郡西粟倉阪根の在郷軍人金子長之助氏にて
世上の評判嘖々、我々同縣人は雀躍に堪へざれば、在阪縣友會有志者は同二
十三日午後同氏?に大毎社々長本山彦一氏を招待し、慰労の會を催したるが
火急の催し殊に雨天なるに拘らず會する者廿餘名、幹事惣代森下亀太郎氏の
大毎社今般の催は現社會の遊惰と流るゝを矯正するに功あり同縣人たる金子
氏が此の名誉の月桂冠を得たるは我々の誇とする處なりとの挨拶をなし本山
氏?に金子氏の答辭、其他二三の演説ありて散會したるは夕十時頃なりしが
金子氏は定て屈強なる体格ならんと想像せらるゝが本人を見れば、中背の寧
ろ痩せたる方にて体量は十三四貫目、席上本山氏の間に答へて牛乳等は飲ま
ず、競争當日の朝飯は通常の飯に鶏卵二三箇を喰ひ晝食は競技終了後にもな
さず、晩七時頃大阪ホテルにて大毎社の祝宴に列し始めて食せり、競走中、
神戸出發後四哩程にて草鞋切れたるより、後十五六哩は跣足にて走れり、大
阪地方には二名の知人ある外他人の聲援も受けざりしが、猶ほ四五哩は競走
を續け得べしと云へり尚又郷里の軍人青年會等より大歓迎會をなすの通知あ
りしかば急ぎ歸郷の筈なるも、此度貰受けたる商品は、過半大阪人より出で
しものなれば、人々の勧めに依り今明両日知人の宅に陳列して廣く一見を請
ひ二十六日出發し上郡驛より下車して歸郷する筈、猶ほ寄贈せられたる優勝
旗一本は家督となし、一本は郷里の小學校へ寄贈する■なる由語り居たり
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