レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年08月05日
- 登録日時
- 2021/09/17 11:35
- 更新日時
- 2021/09/30 14:07
- 管理番号
- 奈県図情21-006
- 質問
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解決
興福寺の阿修羅像はじめ八部衆・十大弟子などの仏像が、昭和20年7月3日に、奈良刑務所の受刑者によって運ばれ、吉野の民家、舟知家の土蔵に疎開をした話を知った。
そこで、阿修羅像が疎開したルートなどを調べている。奈良駅からなのか、京終駅からなのか、近鉄で行ったのか、国鉄で行ったのか、受刑者は何人ぐらいだったのか、貨物車両なのか客車なのか。そもそも、列車で行ったのか等、当時の新聞に載っていたらわかるのではないかと思い、問い合わせた。興福寺に聞いても、当時のことを知っている人はおらず、図書情報館に問い合わせた。
もし、当時の新聞報道があり、そこに写真が載っていたら一番いい。
- 回答
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調査以外の資料を調査しましたが、昭和20年7月3日に阿修羅像が疎開した具体的なルートが記載されている資料はありませんでした。
当館所蔵の昭和20年7月前後の以下の新聞記事も見ましたが、掲載されていませんでした。
・朝日新聞, マイクロフィルム[奈良版] 昭和20年
・毎日新聞, マイクロフィルム[紀和版・奈良版] 昭和20年1-8月
・奈良日日新聞[マイクロフィルム版] 昭和20年7-12月
なお、事前のご調査以外の資料の中で、以下には多少の記載があり、そもそも列車だったのかどうか、という点は列車(鉄道)だったという認識でよろしいかと存じます。
・『興福寺の365日』
→「阿修羅像をはじめとする八部衆像や十大弟子像は一九四五(昭和20)年六月十八日に疎開場所が決定、翌月三日の民家土蔵へ刑務所の受刑者たちの助力を借りて鉄道で移送された。」の記載あり。
・『奈良監獄物語 : 若かった明治日本が夢みたもの』
→「7月、興福寺では八部衆と十大弟子を疎開させることにした。阿修羅像も布でぐるぐる巻きにされ、列車に乗せられた。疎開先に選ばれたのは、吉野のお山。列車に揺られて3時間、駅に着いたものの、そこから先は、急な七曲坂だ。そのころ、男たちはみな兵隊に取られてしまっていた。残っていたのは、奈良刑務所の受刑者たちだ。そこで、彼らの出番となった。受刑者たちは、仏像を担架に乗せ、町長の家の蔵まで、一歩一歩大切に運んだ。」の記載あり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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・中國新聞2019年10月30日11頁「ときを結ぶ 仏像疎開」に載っていた。
・興福寺の日誌に、「7月3日、11時奈良発、午後2時吉野着」と記載されている。
- NDC
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- 仏像 (718)
- 参考資料
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辻明俊著 , 辻, 明俊. 興福寺の365日. 西日本出版社, 2020.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I012337757-00 , ISBN 9784908443534 -
寮美千子文 ; 磯良一絵 , 寮, 美千子 , 磯, 良一. 奈良監獄物語 : 若かった明治日本が夢みたもの. 小学館クリエイティブ, 2019.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I012014985-00 , ISBN 9784778035433
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辻明俊著 , 辻, 明俊. 興福寺の365日. 西日本出版社, 2020.
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000304785