レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/11/17
- 登録日時
- 2019/11/18 00:30
- 更新日時
- 2019/11/18 00:30
- 管理番号
- 6001039871
- 質問
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解決
平安時代の醍醐寺に関わった仏師を知りたい。
- 回答
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以下の資料に醍醐寺の仏師の名前が記載されています。
・『醍醐寺大観』第一巻(岩波書店 2002.10)
p.71~81が「醍醐寺の彫刻」で、うちp.71~75が「平安時代」です。薬師三尊像を完成させたのが観賢である、などの記事が見られます。
p.82~131は醍醐寺の諸仏の詳しい説明もあり、参考文献や製作者の記載、銘記が紹介されている仏像もあります。
・『日本の仏像と仏師たち』(宇野茂樹/著 雄山閣 1982.3)
通覧したところ、以下の仏師が醍醐寺と関わっていました。
p.92~93 会理:上醍醐の薬師如来像(延喜頃)。なお「密教事相に明るく、直接ノミをとって制作にあたることはなくとも、仏師たちを監督指導したことは諸文献から十分に考慮」されるとあります。
p.93 定恵:新堂の釈迦像(延長4年 926)。
p.124~125 院覚:中門の二天(保安元年 1120)。院派に属し、院助の子(または弟子)と言われています。院助は覚助の子とも伝えられており、覚助は定朝(平等院本尊の木造阿弥陀如来坐像の作者)の子と記載されています。
p.128~129 頼厳:吉祥天像(天養元年 1144)。
p.129 勢増・仁増:南大門仁王像(長承3年 1134)。
・『日本古代仏師の研究』(田中嗣人/著 吉川弘文館 1983.8)
巻末索引「社寺名」の「醍醐寺」のページに沿って記すと以下のようになります。
p.183に醍醐寺開基の聖宝と会理の記述があり、西川新次「聖宝・会理とその周辺」『國華』848号(国華社 1962.11)を引用し、聖宝が直接制作には関わらず、「企画・勧請や指揮を行った」と記載しています。
p.193に、「東大寺から東寺への仏師の移行は充分に可能性がある」という文脈で、「木彫系」の醍醐寺聖観音像などの存在が「造東寺司の造仏所が果たした役割は到底無視するわけにはゆかないのである」と記載しています。
p.220「平安時代前半期の仏師一覧」に、以下の4人が醍醐寺に関する仏師として記載されています。
頭仏師僧定恵:下醍醐釈迦堂釈迦像(延長4年 926)。
僧時仁:下醍醐釈迦堂文殊像(延長4年 926)。
沙弥蓮挙:下醍醐釈迦堂弥勒像(延長4年 926)。
漆工檜前貞則:醍醐寺の造像(承平元年 931)。
p.244に定朝が関与した造像として永久3年(1115)の醍醐寺三宝院の高三尺白壇大日如来像、薬師如来像、釈迦如来像が記載されています。
・『日本彫刻作家研究』(小林剛/著 有隣堂 1978.5)
索引の「醍醐寺」の項目に沿って記すと以下のようになります。
p.173 院覚:釈迦堂中門の二天像(保安元年 1120)。
p.173 快慶:三宝院の不動明王像(建仁3年 1203)鎌倉時代になります。
p.284 快慶:三宝院の弥勒菩薩像(建長3年 1192)鎌倉時代になります。
以上記した人名は、次の資料で確認することができます。
・『醍醐寺什宝品目』第一輯上下(玉園快応/編 醍醐寺保存会本部 1896)
国立国会図書館デジタルコレクション(以下のURL)で閲覧することができます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087711(2019/8/27現在)
この11コマと12コマに木造の仏像名、作者、大きさ、数が記されています(「作者不詳」も多い)。
※21コマ目に正誤表があります。
[事例作成日:2019年8月27日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 仏像 (718 10版)
- 参考資料
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- 醍醐寺大観 第1巻 西川/新次∥監修 岩波書店 2002.10 (71-131)
- 日本の仏像と仏師たち 宇野/茂樹∥著 雄山閣 1982.3 (92-93、124-125、128-129)
- 日本古代仏師の研究 田中/嗣人∥著 吉川弘文館 1983.8 (183、193、220、244)
- 日本彫刻作家研究 小林/剛∥著 有隣堂 1978 (173、284)
- http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087711 (『醍醐寺什宝品目』第一輯上下(玉園快応/編 醍醐寺保存会本部 1896)(2019/8/27現在))
- キーワード
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- 仏工(ブッコウ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌事項調査
- 内容種別
- 人物・団体,図・絵
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000265395