レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年12月20日
- 登録日時
- 2019/03/31 09:24
- 更新日時
- 2019/03/31 09:32
- 管理番号
- 千県中千葉-2018-09
- 質問
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解決
旧大多喜藩主大河内正質の、明治5年以降の住所を知りたい。
- 回答
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『華族名鑑』が国立国会図書館でデジタル化されており、大河内正質の住所が記載されていました。デジタル化されている明治5年~明治34年(没年)の資料を閲覧したところ、住所は以下の5カ所です。
【資料1】『華族名鑑』(西村隼太郎編 西村組出版局 明8.3)芝浜松町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780630
22コマ目
【資料2】『皇族華族名鑑』(河内静太郎編 河内静太郎 明治11) 芝浜松町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089475
5コマ目
【資料3】『明治華族名鑑』(石井孝太郎編 深沢堅二 1881) 神田区駿河台南甲賀町8番地
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441
49コマ目
【資料4】『華族名鑑 明治25年10月版』(彦根正三 編 博公書院 1892) 麻布区飯倉片町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780634
33コマ目
【資料5】『華族名鑑 』(秀英舎 明33.7) 東京市小石川区小日向第六天町
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780629
40コマ目
- 回答プロセス
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1 『大多喜町史』(大多喜町史編さん委員会編集 大多喜町 1991)
p584「正質は、廃藩後、東京に移住し」とありますが、具体的な住所は記載なし。
2 ジャパンナレッジLibで「大河内正質」を検索
1844−1901、幕末-明治時代の大名,華族。
天保(てんぽう)15年4月11日生まれ。越前(えちぜん)(福井県)鯖江(さばえ)藩主間部詮勝(まなべ-あきかつ)の5男。大河内正和(まさとも)の養子となり,文久2年上総(かずさ)(千葉県)大多喜藩主大河内(松平)家9代。奏者番,若年寄をへて,慶応3年老中格。4年の鳥羽・伏見の戦いでは幕軍を指揮し,敗れて一時領地を没収された。子爵。貴族院議員。明治34年6月2日死去。58歳。初名は飽徳。
2 件名「華族-名簿」で検索
当館では所蔵がなかったが、国立国会図書館サーチで検索すると、『華族名鑑』が国立国会図書館でデジタル化されており、【資料1】~【資料5】を閲覧することができた。
- 事前調査事項
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明治4年11月、旧佐倉藩主堀田正倫は、東京渋谷の邸を政府に上地した。その代わりとして、明治5年4月に深川佐賀町の邸を政府から賜った。この屋敷は、『地図と愉しむ東京歴史散歩』(121頁)によれば大多喜藩松平家下屋敷であったとある。とすれば、堀田により移転を余儀なくされた大河内はどこにいったのか。
<補足>
『大多喜町史』(大多喜町 1991)p568 によると、大河内氏は松平とも称したようです。
- NDC
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- 関東地方 (213 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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【資料1】『華族名鑑』(西村隼太郎編 西村組出版局 明8.3)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780630 -
【資料2】『皇族華族名鑑』(河内静太郎編 河内静太郎 明治11)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089475 -
【資料3】『明治華族名鑑』(石井孝太郎編 深沢堅二 1881)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441 -
【資料4】『華族名鑑 明治25年10月版』(彦根正三 編 博公書院 1892)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780634 -
【資料5】『華族名鑑』(秀英舎 明33.7)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780629
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【資料1】『華族名鑑』(西村隼太郎編 西村組出版局 明8.3)
- キーワード
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- 大河内 正質(オオコウチ マサタダ)
- 大多喜藩(オオタキハン)
- 東京都-歴史(トウキョウト レキシ)
- 千葉県-大多喜町(チバケン オオタキマチ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000254242