レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/3/27
- 登録日時
- 2014/04/17 00:30
- 更新日時
- 2014/04/22 10:18
- 管理番号
- B140306101424
- 質問
-
解決
第二次世界大戦中に京都帝国大学で荒勝文策(アラカツブンサク)博士のもとで研究生だった、花谷暉一氏に関する情報が記載された資料を紹介してください。
- 回答
-
ご照会の事項について回答します(【 】内は当館請求記号です)。
お探しの人物についての情報が掲載されている資料がありましたので以下(1)-(14)でご紹介します。
また、お探しの人物の博士論文を当館関西館で所蔵していますので、参考までに(15)でご紹介します。
(1)『医師たちのヒロシマ : 原爆災害調査の記録』([核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会]「医師たちのヒロシマ」刊行委員会編 機関紙共同出版 1991.6 【EG74-E49】)
1945年9月に原爆災害調査のため広島へ向かった京都大学の調査隊の記録や調査隊員たちの証言をまとめた資料です。
以下のページに、花谷暉一に関する記述があります。
・33ページに、花谷暉一(「暉一」部分に、「てるいち」と仮名がふってあります。)が第三次の調査隊として広島に派遣されたとあります。
・「遭難」の項(pp.34-47)では、京大理学部及び医学部の調査隊が枕崎台風による山津波に遭遇した際の様子を記載しています。花谷暉一を含む6人の京大理学部の調査隊員が大野陸軍病院の食堂にいるときに山津波にあったことなどを記しています。
・97ページに、「(略)花谷暉一大学院生ら十名が(略)殉職され」とあります。
・「第三章 京都大学原子爆弾災害総合研究調査班の成立とその活動」の項(pp.169-248)では、調査隊の活動の様子、山津波に遭遇した際の様子などを記載しています。
・182ページには、殉難者の一人として、「花谷暉一 大学院学生(理学部)」とあります。
・192ページには、「この木村助教授のいた机の一つ北側の机に死亡した花谷、堀、村尾の三君がいたのだ。」とあります。
(2)"Doctor's testimonies of Hiroshima : a report of the medical investigation into the victims of the atomic bombing"(2nd ed. by Kyoto Physicians' Association Appealing the Prevention of Nuclear War and the Abolition of Nuclear Weapons ; edited and translated by Hidenori & Fusami Sugimine ; translated by Jeffrey & Marcia Johnson ... [et al.]. Kyoto : International Human Network Society for International Understanding and Exchange Program 1995 【EG74-A11】)
『医師たちのヒロシマ : 原爆災害調査の記録』(資料(1))の英語版です。
・ 25ページ((2)の33ページに該当)に、"On September 15th, Associate Professor Kiichi Kimura, leader, Research Associate Jutro HOri, Employee Makoto Murao, and Postgraduate Teruichi Hanatani, students Kiyoshi Nishikawa and Munezo Takai, were dispatched to Hiroshima as the six members of the third investigation team."とあります。
・"Disaster: The Makurazaki Typhoon and the Destruction of the Ono Army Hospital"の項(pp.26-38)は、(2)のpp.34-47に該当しています。
(3)『空白の天気図』(柳田邦男著 新潮社 1975 【EG77-89】)
1945年8月6日の原爆投下から9月17日の枕崎台風被災に際しての広島気象台の活動の記録、県内被災の状況などを記した資料です。
189ページから212ページにかけては、京都大学原爆災害総合研究調査班が大野陸軍病院で山津波に遭遇した際の様子を記載しています。このうち、花谷暉一に関する記述は、以下のとおりです。
・「この第一次調査に加わったのは、荒勝研究室からは、荒勝教授(略)、花谷暉一大学院生、(略)」(p.190)
・「しかし、物理班の残る堀重太郎、村尾誠、花谷暉一の三人は行方がわからないということだった。」(p.203)
・「原爆直後の第一次調査のときから参加していた大学院生の花谷暉一」(p.203)
(4)『広島県史. 原爆資料編』(広島県 1972 【GC221-7】)
「原爆調査団の活動 IV大学調査団 2京都大学 清水栄日記」の項(pp.521-551)に、花谷の名が数回出ています。たとえば以下のとおりです。
「八月九日 (中略)広島行きは先生(注:荒勝文策)と余と花谷君の三人とした」(p.523)
「九月二十日 (中略)堀、花谷、村尾君行方不明(略)」(p.540)
「九月二十三日 (中略)先生は直に理学部長と話し、堀君、花谷君の遭難死亡を予想して(中略)、花谷君にはUのfissionのことで学位を授与すべき様にし(略)(p.542)」
「九月二十五日 (中略)その手紙によれば花谷君の死体も見いだされ由(略)」
(5)朝日新聞(大阪) 1945年9月23日 朝刊 p.2
聞蔵ビジュアルII(当館契約データベース)を検索したところ、1945年9月23日付けの朝刊の「眞下京大教授ら十八名死傷 原子爆弾調査団台風で遭難」という見出しの記事の中に、行方不明者の一人として花谷暉一が掲載されていました。
なお、読売新聞の1945年9月23日付朝刊の2面、朝日新聞(東京)の1945年9月23日付朝刊の2面にも同様の記事が掲載されています。
(6)『第三高等学校一覧. 昭和15年度』(第三高等学校 昭和15 【特218-747】)国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275321)
「本校高等科生徒 理科三年甲類三学級」の項(50コマ目)に、
「京都二(注:出身中学校略称) 花谷暉一 京都(注:本籍府県名)」とあります。
(7) 『第三高等学校一覧・京都臨時教員養成所一覧. 昭和16年度』(第三高等学校 昭和17 【特231-177】)国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開) (http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275348)
「理科甲類卒業生 昭和16年卒業生」の項(71コマ目)に、
「京理(注:進入大学略称) 花谷暉一 京都(注:本籍府県名)」とあります。
(8)『京都帝国大学一覧. 昭和15-17年度』(京都帝国大学 昭和15-18 【281-5】)国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450830)
「学生及生徒姓名 理学部 物理学 昭和十六年入学」の項(211コマ目)に、
「花谷暉一 京都」とあります。
(9)『京都大学七十年史』(京都大学 1967 【377.21-Ky995k4】)
128ページに、原子爆弾総合調査団として広島に派遣された京都大学医学部、理学部の班員たちが会議中であった大浦陸軍病院が倒壊したこと、殉職者を弔うため10月11日に大学葬が行われたことなどが記載されています。殉職者の一人に「花谷暉一」とあります。
(10)『京都大学百年史. 部局史編 1』(京都大学後援会 1997.9 【FB22-G280】)
532ページに、京大原爆災害調査班として広島で調査を行っていた班員が、枕崎台風による山津波に遭遇し死傷者が出たこと、現在京大にある「花谷会館」は、物理学科大学院生であった花谷暉一の遺族が寄付したものであることなどが記載されています。
(11)政池明「第2次大戦下の京都帝大における原子核研究とその占領軍による捜査 (1)原子核の実験的研究の軌跡」(『原子核研究』 55(1) 2010.9 pp.76-89 【Z14-709】)
戦前・戦中の京都帝大における原子核物理学の実験的研究と戦後の占領軍による捜査について解説しています((14)-(16)も同様)。
以下のページに、花谷暉一に関する記述があります。
・ 「1945年7月21日に琵琶湖ホテルで開かれたF研究(本稿第3回参照)のための京都帝大と海軍の合同会議で荒勝と花谷暉一によって発表された報告には 『前ニ当研究室ニ於テ推定セシvノ値2.6(荻原)並ニ2.4(木村、花谷)ハ未ダ測定技術上初期時代ノ推定ニヨルモノデ今日検討吟味ノ用ニ供スル事ハ妥当デナイ』と述べられている。」(p.78)
・荒勝研究室の研究活動を列挙した項に、以下の記述がありました。(p.87)
「④17MeVガンマ(注:原文は記号)線による光反応で発生したアルファ(注:原文は記号)粒子の霧箱による観測(B. Arakatsu, S. Shimizu, T. Hanatani, and U. Muto 印刷中)
⑤熱中性子と重い原子核の反応断面積(T. Hanatani:未発表、1945)」
(12)政池明「第2次大戦下の京都帝大における原子核研究とその占領軍による捜査 (2)サイクロトロンの破壊」(『原子核研究』 55(2) 2011.3 pp.89-102 【Z14-709】)
以下のページに、花谷暉一に関する記述があります。
「昭和20年9月17日 大野浦陸軍病院ニテ背後ノ山崩レニ遭イ、花谷(暉一)、堀(重太郎)、村尾(誠)ノ三名ヲ失フ。(9-17-20h 20m頃)」(p.90)
(13)政池明「第2次大戦下の京都帝大における原子核研究とその占領軍による捜査 (3)原爆研究の記録―その1」(『原子核研究』 57(1) 2012.9 pp.85-97 【Z14-709】)
以下のページに、花谷暉一に関する記述があります。
・ 85ページに、F研究(海軍の依頼によって京大で行われた原爆の基礎研究)についての解説があり、「研究を担当したのは主として次のようなメンバーだった。(略)中性子によるウランの核分裂の断面積の測定やそれに関連した基礎実験は荒勝研究室の木村毅一、花谷暉一などが行った。」とあります。
(14)政池明「第2次大戦下の京都帝大における原子核研究とその占領軍による捜査 (4)原爆研究の記録―その2」(『原子核研究』 57(2) 2013.3 pp.76-89 【Z14-709】)
以下のページに、花谷暉一に関する記述があります。
・1945年7月21日に琵琶湖ホテルで開かれた京都帝大と海軍との合同会議で提示された資料、
「ウラニウム原子核ノ熱中性子捕獲(吸収並ビニ核分裂ノ和)断面積ノ測定、附ソノ総衝突断面積」(昭和20年6月22日 荒勝文策、花谷輝一、木村毅一)
「熱中性子ニ対スルウラニウムノ原子核ノ分裂断面積及ビ吸収断面積ニツイテ」(昭和20年6月22日 荒勝文策、花谷輝一)
の要旨を示しています。(pp.78-81)
・「4.広島原爆の調査」(pp.85-86)では、第1次調査に花谷暉一らが参加したこと、第3次調査の際に枕崎台風に遭遇し調査団が死傷したことなどを簡潔に記載しています。
また、花谷暉一の博士論文を当館関西館で所蔵しています。
(15)『熱中性子の重元素原子核に対する作用断面積について』(花谷暉一 [著] 博士論文 京都帝国大学 昭和20年9月16日 【UT51-61-H489】)
[その他調査済み資料・データベース]
・『京都帝国大学史』(京都帝国大学 昭和18 【281-56】)国立国会図書館デジタルコレクション(インターネット公開)(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460809)
・『三高八十年回顧』(大浦八郎著 関書院 1950 【YD5-H-a374-31 (マイクロフィッシュ)】)国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)
・『神陵史 : 第三高等学校八十年史』(神陵史編集委員会編 三高同窓会 1980.3 【FB22-J521】)
・『戦中・戦後三高小史』(上横手雅敬原著 三高記念室編 三高自昭会 2008.1 【FD4-J26】)
・『『第三高等学校関係資料』解説・目録』(京都大学大学文書館 2009.3 【FB22-J226】)
・『人物レファレンス事典. 科学技術篇』(日外アソシエーツ 2011.2 【GB12-J38】)
・『Maruzen物理学大辞典』(丸善 1999.3 【MC2-G13】)
・『物理学辞典』(3訂版 培風館 2005.9 【MC2-H7】)
・『物理学大事典』(鈴木増雄 荒船次郎 和達三樹編 朝倉書店 2005.10 【MC2-H8】)
・『原子分子物理学ハンドブック』(市川行和 大谷俊介編 朝倉書店 2012.2 【MC2-J13】)
・ 大塚直彦 河野俊彦「核データ考古学 Nuclear Data Archaeology 核データニュース No.106(2013)(http://wwwndc.jaea.go.jp/JNDC/ND-news/pdf106/No106-11.pdf)(日本原子力研究開発機構 核データ評価研究グループ)
・CiNii Articles(http://ci.nii.ac.jp/)
・JDreamIII(当館契約データベース)
インターネット・データベースの最終アクセス日は2014年3月15日です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 科学史.事情 (402 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 花谷暉一
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000152398