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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

提供館
(Library)
同志社大学 今出川図書館 (3310014)管理番号
(Control number)
2017-019
事例作成日
(Creation date)
2017年06月22日登録日時
(Registration date)
2017年08月22日 14時56分更新日時
(Last update)
2020年02月25日 10時52分
質問
(Question)
伊藤快彦と同志社の関わりについて、以下のことを人から聞いた。
裏付けとなる資料を探している。

①仏教寺院では異国人キリスト教徒を葬ることは拒否されたため、異国人キリスト教徒を埋葬する場所に困った新島襄が、山本覚馬に相談したところ、山本覚馬の知人の伊藤快彦(やすひこ/よしひこ※文献により異なる)が若王子山の山頂に葬れる場所があると言った。

②伊藤快彦は、南禅寺に下宿していた同志社の学生、小崎継憲(こざき・つぐのり)にすすめられて、同志社に肖像画を寄贈した。
回答
(Answer)
①伊藤快彦が、若王子山に葬るように言ったという資料は見つけることができませんでした。
新島の生前に同志社関連の異国人キリスト教徒が若王子山に埋葬された例があれば、その経緯を調べることで、お探しの資料が見つかるのではないかと考え、調査しましたが、はっきりとした例を見つけることができませんでした。
また、若王子山には墓地があり、新島襄も若王子山に埋葬されています。それらの経緯も調査しましたが、特にそういった記述は見つかりませんでした。
墓地に関してわかったことをまとめますと以下のとおりです。

明治維新 若王子神社の社領地が「官」に没収される。
明治6年(1873年)8月 共葬墓地として現在の京都市に移管される。

明治12年(1879年)12月23日 新島襄の姉美代死去。黒谷墓地に埋葬。
明治14年(1881年)11月9日 山崎為徳死去。黒谷墓地に埋葬。
明治19年(1886年)2月25日 D.W.ラーネッドの子ロバート死去。黒谷墓地に埋葬。
※黒谷墓地(金戒光明寺)には会津藩士の墓地があり、山本覚馬が元会津藩士であったことから、新島が墓地を取得することができたとされています。

明治20年(1887年)1月30日 新島襄の父民治死去。南禅寺天授庵に埋葬。
※当初、黒谷墓地に埋葬予定。変更の理由は不明とされています。

明治23年(1890年)1月23日 新島襄死去。若王子山に埋葬。
※当初、南禅寺天授庵に埋葬予定。南禅寺がキリスト教を問題視し、埋葬や葬儀に条件をつけたため、若王子山に変更。若王子山に決めた理由は不明ですが、同志社人に「なじみ深い山であった」としている資料もあります。

明治24年(1891年)12月12日 山崎為徳を若王子山に移葬。

②『同志社校友同窓会報』第94号(1935.3)の記事「第四十五周年新島先生永眠記念会」(『追悼集』6に所収)に、伊藤快彦の談話として、肖像画を寄付した経緯の記載がありました。

詳しくは回答プロセスをご確認ください。
回答プロセス
(Answering process)
1.本学OPAC検索
キーワード:伊藤快彦
星野桂三, 星野万美子編集制作『伊藤快彦遺作展 : 京都洋画の先達』(星野画廊, 2012)
石井香絵『伊藤快彦研究』(2008年度修士論文)
利用者本人に確認していただくが、①に関する記述はなかったとのこと。

2.本学ホームページを検索
『同志社墓地のご案内』(デジタルブック。下記URLよりアクセス可能)
https://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html  [参照 2017-08-22]
「至高の地」
・新島襄が葬られた当時は京都の共葬墓地であった。
・山本覚馬が葬られて以降、同志社にゆかりのあるキリスト教徒が次々に埋葬された。
※伊藤快彦については記述なし。

3.同志社関連の資料
『同志社百年史』(同志社, 1979)
通史編2の事項索引「若王子」より該当ページを確認するが記載なし。

『同志社九十年小史』(同志社,1965)
p.167「若王子山墓地」
・山崎為徳が明治14(1881)年に死去したとき、黒谷墓地に埋葬された。
・仏教徒が暴く恐れがあるとして、新島が若王子山上の墓地に改葬した。
・若王子山に山崎を埋葬して以来、その付近にキリスト教徒の墓が漸次できた。
・明治20(1887)年新島襄の父が死去したとき、黒谷墓地に葬る予定だったが、南禅寺天授庵の墓地に埋葬した。
・明治23(1890)年新島襄が死去したとき、南禅寺天授庵に葬る予定だったが、南禅寺から「キリスト教の葬儀を行わない」という条件が出されたため、若王子山に埋葬した。
※伊藤快彦については記載なし。

生島吉造, 松井全共編『同志社歳時記』(同志社大学出版部, 1975)
p.97「6月16日 伊藤快彦」
②についての記載あり。
「私はかつて伊藤画伯にお目にかかり、この絵の縁起を問うた。画伯と新島先生とは全く面識が無かったそうで・・・・・・同志社の学生で南禅寺に下宿し、彫塑などに興味をもった小崎継憲氏と知り合い、その勧めで同志社に寄贈された由で・・・・・・」

出典には「田中良一「新島先生の肖像」」とあり。
出典そのものは見つからなかったが、以下の資料が見つかった。

田中良一著『新島襄先生肖像画について』(1951)
「此の肖像は・・・・・・知人小崎継憲氏(校友)を通じて同志社へ寄付せられ」

4.同志社墓地についての論文
本井康博「同志社墓地」(『同志社談叢』(24), p.172-221, 2004-03.)
p.174~「一、若王子山」
・「若王子山共葬墓地」の一角(1割強)が「同志社墓地」である。
・新島の生前、黒谷墓地には、キリスト教徒も埋葬されている。
明治14年(1881年)山崎為徳、明治19年(1886年)D.W.ラーネッドの子ロバートが埋葬されている(出典は「同志社記事」『新島襄全集』第1巻p.317)。
・黒谷墓地(金戒光明寺)を新島が取得できたのは、同寺に会津藩の墓地があり、山本覚馬が元会津藩士であったことによるものと考えられる。

p.183~「五、若王子神社と新島襄」
・伊藤快彦は、若王子神社の神官の家に生まれた。
・新島の死去を新聞報道で知り、肖像画を描いた。
・同志社卒業生(小崎弘道の実弟、継憲)の仲介で同志社に寄贈された。
※出典は「第四十五周年新島先生永眠記念会」(『追悼集』第6巻p.365)。

p.215~「十、同志社墓地外に眠る人びと(周辺の宣教師墓)」
・同志社墓地外にも同志社関連の宣教師の墓がある。
・新島死去以前の墓も存在する。
・1874年12月31日、アメリカンボード日本ミッションで墓地の確保が議題になり、1875年3月16日、神戸に墓地を購入するための資金要求の決議を行っている。
・1886年2月25日、ラーネッドの子ロバートが死去。黒谷墓地に埋葬したが、寺の規則が厳重になり、手続きが煩雑であった(出典は「同志社記事」『新島襄全集』第1巻p.259)。
・ロバートがいつ若王子山に移葬されたかは不明。

出典を確認。

『新島襄全集』第1巻p.259~
(明治)「十九年ノ記」として、2月25日にラーネッドの子を「黒谷参上ニ葬ル」とある。
「昨年来寺ノ規則ヲ一層厳重ニナシタル由」とある。
若王子墓地に関する記述はなし。

「第四十五周年新島先生永眠記念会」(『追悼集』第6巻, p.364-366)
伊藤の回想として以下の記載があった。
 「私は若王子神社の神主であります・・・・・・私が東京に出で絵画修行をしてゐるとき、丁度先生は大磯に病没せられました。私の師匠は徳富猪一郎氏と懇意でありましたから、新島先生の人となりに就いてはよく聞いてゐました、処が新聞でみると若王子山に葬られたとある。・・・・・・先生の伝記を読みいっそう詳しく先生の人となりを知り、偉い方だ、こんな方が日本に在るのか、こんな方の肖像を描きたいものだ」
「然るに私は明治二十六年に京都へ帰へりましたので、・・・・・・当時小崎社長の弟様に土をひねられる方があって南禅寺に下宿して居られました。不思議な縁で私も南禅寺に画室を借りてゐましたので自然往来するうちに新島先生の肖像画の話も出ました。見度いと云はるゝから御見せしました、さうするうちに同志社へ寄付してくれてはどうかという御話がありましたので・・・・・・寄付したような次第です」
※出典は『同志社校友同窓会報』第94号(1935.3)。

②については解決したが、①については記述が見つからない。

『追悼集』7の索引に「伊藤快彦」「山本覚馬」「山崎為徳」あり。
『追悼集』1のp.3~4「山﨑為徳」(「同志社文学雑誌」第49号(明治24年12月20日)の記事)
・山崎為徳は明治14年11月9日死去。
・明治24年12月12日に、黒谷墓地から若王子に移葬された。
※「伊藤快彦」「山本覚馬」からは情報が得られなかった。

5.若王子山墓地についての資料
伊藤快彦『熊野若王子神社概誌』(村社熊野若王子神社々務所, 1923)
p.5~「沿革」
・明治維新の際、山林田畑や社殿以外の社領地が「官」に没収された。
・開墾した田畑も「官」が没収し、墓地とした。現在京都市有のキリスト教徒の墓地がまさにこれである。

レファレンス協同データベース検索
キーワード:若王子 墓地
京都府立京都学・歴彩館の事例「鹿ケ谷若王子の墓地は明治時代前半は府有地の墓地であったが、その後京都市の管理となった。明治時代の京都の墓地の管理の変遷について知りたい。」より、以下の2冊の情報を得る。

京都市市政史編さん委員会編『市政の形成』京都市政史第1巻(京都市, 2009)
p.93-94「火葬場と墓地をめぐって」
・1873年(明治6年)8月、府が社寺境内と山林の一部を上京、下京に下げ渡した。
(当時、京都市は存在していない)
・上京、下京共葬墓地は、1889年市制の際に市に移管された。

『京都坊目誌』上京之部 坤(京都叢書第11巻)(京都叢書刊行會, 1915)
第二十七学区(鹿ケ谷町之部)p.483「若王子の墓地」に、「京都市共同墓地とす。維新後の設置にかかる。」とあり。

以上より、維新前には若王子の社領地であったが、維新後に官有地となり、共同墓地とされたことがわかる。

田中良一著『若王子墓地について:新入学生諸君のために』([同志社], [1959])
同じ資料が2冊合綴されている。
・1冊目「二.墓地の沿革」
「古くから、行路病人や(中略)これを墓地らしい墓地にしたのはキリスト教徒で、明治以来のことである。察するに、キリスト教徒が山麓の寺院管理の墓地を避けて、山腹に新しい墓地を拓いたのであろう。」
・2冊目には、その部分に訂正がなされ、「明治十四年、山麓の寺院管理の墓地を避けて、山崎為徳をここに葬って以来、山腹に新しい墓地を拓いたのであろう。」となっている。
正しい記述かどうか不明。

6.新島襄の埋葬に関する資料
河野仁昭「新島襄の葬儀」(『同志社時報』(88)p.81-87, 1990-01.)
・「葬儀記録」に南禅寺からの通知により「俄かに若王子山墓地に葬ることに改む」とある。
・p.86「この若王子山は、熊本バンドの第1回奉教記念会(明治10年1月30日)の場所になるなど、同志社の生徒には比較的なじみ深い山であった(『創設期の同志社』所収「海老名弾正」「小崎弘道」「深田照」など参照)。だから、(中略)埋葬地の変更にさほど悲愴感などはなかったかもしれない。」

同志社社史資料室編『創設期の同志社:卒業生たちの回想録』(同志社社史資料室, 1986)
『同志社ローマンス』のために収集した、卒業生の回想録。ほとんどが聞き書き。
索引に「若王子山」あり。確かに本文中には「薬王寺[若王子]」に登ったという記述が多く見受けられる。
事前調査事項
(Preliminary research)
『新島研究』には目を通した。
小崎継憲は小崎弘道の弟である。
NDC
個人伝記  (289 9版)
参考資料
(Reference materials)
建学の精神と新島襄(同志社墓地のご案内)| 大学紹介 | 同志社大学
https://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html  [参照 2017-08-22]
同志社社史史料編集所 [編] , 同志社社史史料編集所. 同志社百年史 通史編. 同志社, 1979.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001449979-00  (NCID:BN01577053)
同志社々史々料編集所 編 , 同志社. 同志社九十年小史. 同志社, 1965.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001077367-00  (NCID:BN08899502)
生島吉造, 松井全 共編. 同志社歳時記. 同志社大学出版部, 1975.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001191389-00  (NCID:BN05818242)
田中良一. 新島襄先生肖像画について. [同志社新島会], 1951. (NCID:BA51975271)
本井 康博. 同志社墓地. 2004-03. 同志社談叢 / 同志社大学同志社社史資料センター 編(24) p.172~220, 図巻頭1~16
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I6897403-00
同志社社史資料室 編. 追悼集 6 (同志社人物誌 昭和10年~昭和12年). 同志社社史資料室, 1993.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002245758-00  (NCID:BN04455868)
同志社社史資料室 編. 追悼集 7 (同志社人物誌 昭和13年~昭和18年). 同志社社史資料室, 1994.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002319452-00  (NCID:BN04455868)
同志社社史資料室 編. 追悼集 1. 同志社社史資料室, 1988.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001910932-00  (NCID:BN04455868)
伊藤快彦 [編]. 熊野若王子神社概誌. 村社熊野若王子神社々務所, 1923.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001554538-00  (デジタルコレクションで公開)
鹿ケ谷若王子の墓地は明治時代前半は府有地の墓地であったが、その後京都市の管理となった。明治時代の京都の墓地の管理の変遷について知りたい。(京都府立京都学・歴彩館).
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000092918-00  [参照 2017-08-22]
京都市市政史編さん委員会 編 , 京都市. 京都市政史 第1巻 (市政の形成). 京都市, 2009.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010152456-00  (NCID:BA89690478)
碓井小三郎編. 京都坊目誌 上京之部 坤. 京都叢書刊行會, 1915.9-1916.11. (京都叢書 / 京都叢書刊行會編) (NCID:BN12143270)
田中良一. 若王子墓地について : 新入斈生諸君のために. [同志社], [1959].(田中良一関係資料) (本学書誌ID:BB10023793)
河野仁昭. 新島襄の葬儀. 1990-01. 同志社時報(88), p.81-87.
同志社社史資料室 編. 創設期の同志社 : 卒業生たちの回想録. 同志社社史資料室, 1986.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001883139-00  (NCID:BN00984299)
新島襄全集編集委員会 編 , 新島, 襄, 1843-1890. 新島襄全集 1 (教育編). 同朋舎出版, 1983.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001619207-00 , ISBN 4810403106 (NCID:BN00185411)
伊藤快彦 [画] , 伊藤, 快彦, 1867-1942. 京都洋画の先達・伊藤快彦遺作展. 星野画廊, 2012. (忘れられた画家シリーズ ; 34)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023899844-00  (NCID:BB10018375)
石井香絵. 伊藤快彦研究. [2008].(2008年度修士論文) (NCID:BA8934768X)
キーワード
(Keywords)
同志社
伊藤快彦
山本覚馬
新島襄
若王子山墓地
若王子神社
肖像画
小崎継憲
黒谷墓地
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
同志社
質問者区分
(Category of questioner)
教員
登録番号
(Registration number)
1000220910解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
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