レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 同志社大学 今出川図書館 (3310014) | 管理番号 (Control number) | 2015-002 | ||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2015年04月02日 | 登録日時 (Registration date) | 2015年06月01日 10時45分 | 更新日時 (Last update) | 2016年11月16日 17時41分 | ||||
質問 (Question) | 次の資料を探している。 (ア)京都祇園にある「中村楼」と新島襄のつながりを示す文献 (イ)新島襄が中村楼に洋食を提供することを勧めた、あるいは洋食をPRしたことがわかる資料 「中村楼」を訪れた時、「中村楼」のご主人から新島襄とつながりがあったと聞いた。 | ||||||||
回答 (Answer) | (ア)新島襄が中村楼を利用した記録がありました。 (イ)新島襄が中村楼に洋食を提供することを勧めた、あるいは洋食をPRした記録は見つかりませんでした。 新島が初めて京都を訪れたのは、第4回京都博覧会の開催期間中で1875(明治8)年のことです。 一方、中村楼が京都で最初の洋食屋「中村屋」を開店したのは、文明開化の頃に京都知事槇村正直の奨めであったとの雑誌記事がありました。開店の正確な年は記録がありませんでしたが、神戸で洋食の食材調達が可能になった1869(明治3)年頃から1872(明治5)年の間ではないかと推測されます。 1872(明治5)年には第1回京都博覧会が開かれ、中村楼が外国人宿泊客用料理(洋食)を提供しています。この第1回京都博覧会が開催された当時、新島襄はアメリカ滞在中でした。 したがいまして、新島襄が中村楼に洋食を提供することを勧めるのは難しいと思われます。 また、洋食のPRについては、京都新聞の記事に洋食の提供について”こういった新しい取り組みを同志社の創始者、新島襄・八重夫妻が支援したという記録があり”という記述はありましたが、お調べした範囲ではそのような記録は見つかりませんでした。 その他、詳細は回答プロセスをご覧ください。 | ||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1.新島襄が「中村楼」を利用した記録についての調査 下記の記録が見つかった。 ・1884(明治17)年4月4日 田中源太郎・高木文平・浜岡光哲に招かれて中村楼の送別会に八重夫人・覚馬と共に出席する。 (①『新島襄全集 8』p.290) ・1888(明治21)年2月25日 中村楼にて原六郎(横浜正金銀行頭取)と土倉富子(土倉庄三郎の娘)の結婚式が行なわれる 新島は司式を務めた。(②本井康博著『新島襄の交遊』 p.205) ・1889(明治22)年6月27日 此日、諸新聞社記者を招き卒業式に臨参を乞ひ、其夕、中村楼に於テ平素ノ好意を謝し、又将来の賛成を求む。 (③『新島襄全集 5』 p.467)(④『同志社百年史 資料編1』 p.213) 同志社普通学校の卒業式、ならびに祝賀会(円山・中村楼)に土倉庄三郎と実弟(喜三郎)が招かれた。 (②本井康博著『新島襄の交遊』p.208) 2.中村楼の洋食提供についての調査 ・洋食屋の開店 ⑬『二軒茶屋中村楼 料亭(京都府)--創業・天文年間(1531年〜1554年) 』p.38-45 ”文明開化当時の京都知事槇村正直の奨めで、京都で最初の洋食屋「中村屋」を開店した。” →新島襄は1964~1974年まで渡米している。 ①『新島襄全集 8』p.142 ⑨本井康博『《研究ノート》京都博覧会とアメリカン・ボード-京都ステーション(同志社)への道-』p.100-139 ⑩新島襄年表(新島遺品庫資料公開) ・京都博覧会での洋食の提供 中村楼が第1回京都博覧会(1872年(明治5年))の外国人宿泊客用料理を提供していた ⑥『京都博覧会沿革誌』(京都博覧協会, 1903) 上巻p.22-24 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801765 (近代デジタルライブラリー) コマ番号35-36 [参照 2015-06-01] 料理のメニューと食事の提供者として「中村屋」の主人「辻重三郎」の名前の記載あり。 ⑦『京都ホテル100年ものがたり』(京都ホテル, 1988) p.145-146 http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no04.html (WEB版) [参照 2015-06-01] ”食事はすべて、「中村屋」がつくって、各宿に届けた” ”当時、西洋料理材料などは、京都では手に入りませんでしたが、明治3年から、アメリカ太平洋郵船会社の上海航路が、横浜と神戸に寄港しましたので、サンフランシスコから直輸入の食料品や酒類を、神戸まで買い出しにいったのでした。” ⑧前坊洋著『明治西洋料理起源』p.24 上記に『京都新聞』16号に中村屋の辻重三郎が1975年秋に”外国料理為修行大阪居留地へ罷越数月滞留”とある。 →中村屋が大阪料理修行に出ていたのは、新島が初めて京都を訪れる第4回京都博覧会の開催直前となる。 3.新島襄が中村楼の洋食提供を支援した記録の調査 ⑪京都新聞『立食パーティー発祥の洋食復活 京都・中村楼』2014年4月25日 "中村楼は八坂神社の門前の茶屋として創業し、江戸時代には竹串に刺した田楽豆腐が名物となり「二軒茶屋」の名で親しまれた。明治期には多くの財界人、文化人が出入りし、別棟では洋食を提供。外国人の宿泊施設も整えた。こういった新しい取り組みを同志社の創始者、新島襄・八重夫妻が支援したという記録があり、立食パーティーも中村楼が発祥だ。 →上記の新聞記事にある記録について調査したが、該当するものは見つからなかった。 また、同志社社史資料センターに問い合わせたが、記録はないとの回答を得た。 (京都新聞社への問い合わせたが、回答無し) ※参考 ⑤本井康博『ハンサムに生きる 新島襄を語る(七)』 p.182-184「主夫・新島襄の食事」、「手料理で、もてなす」「洋食を振舞う」 新島襄は、洋食を好み、手料理(おそらく洋食)で客をもてなしたり、学生に自宅でキャベツ巻きやオムレツ、ビフテキなどの洋食の昼食を食べさせた様子が紹介されている。 | ||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) | |||||||||
キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||
備考 (Notes) | |||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 人物 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||
登録番号 (Registration number) | 1000175289 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 未解決 |