レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年08月31日
- 登録日時
- 2012/01/17 18:58
- 更新日時
- 2012/06/05 10:17
- 管理番号
- 埼浦-2011-080
- 質問
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未解決
現在の本庄市児玉町小平に明治の頃、在籍していた木村政明という人物についてわかる資料が見たい。通称名を伊勢松といい、本多佐渡守の孫、正好の子孫である。
- 回答
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木村政明氏について詳しく書かれた資料は見つからなかったが、関係があると思われる下記の資料を紹介した。
『児玉記考 後編』
p89 秋平村の項に、「役場職員」「村会議員」「常設委員」「衛生組長」「消防組頭」「学校」「名誉軍人」「名誉之戦死軍人」「社寺」「旧家」「赤十字社員」「所得納税者」はあるが、木村姓は確認できず。
「旧家」の項に、和田杢吉「其祖従四位侍従本田正信之ノ孫ナリ寛永年間故アリテ紀州田辺之城主安藤飛騨守ヘ預ケラル地頭安藤家有縁ニ依り当地ニ来リ居住シ姓ヲ和田ト改メ弥平次ト通称シ累代安藤彦四郎知行ノ代官職トナリ家臣ニ列セラレタル名族ナリ」とあり。
『埼玉苗字辞典 4』
p8419「和田」に上記の児玉記考の引用と、以下の記述あり。
「旗本安藤氏の領地阿那志村を支配し、天保十二年阿那志村名主千田文書に「和田弥平次殿出府致候と見ゆ。本多氏の家臣であろう。」とあり、本多政信について「寛永十一年生、大和国一万石を領し、寛文二年卒二九歳、子無く、忠英が遺領を継ぐ。児玉記考は年代あわず。」とあり。また「成身院百体観音堂天明年度施主連名に小平村和田幸八。秋平小学校明治三十二年碑に和田杢吉、和田千太郎あり。」
- 回答プロセス
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その他調査済み資料
『児玉風土記』(児玉町文化協会 1970)
『児玉町史史料調査報告 2』
『秋平村郷土史』(埼玉県郷土文化会 1951)
『武蔵国児玉郡誌』( 児玉郡誌編纂所 昭和2年刊の複製)
p591-662 第十一章 人物編に鎌倉時代武士、旧家、表彰者、歴代郡会議員等の名簿あり。木村、は和田姓の秋平村関係者について確認できず。
『武蔵国郡村誌 8』(埼玉県立図書館 1954)
p285 「小平村」の項、管轄沿革に「天正十八庚寅年徳川氏に帰し同十九年辛卯年安藤直次の采邑となり子孫累世相襲く」とあるが、本多、木村については記述なし。
『新編武蔵風土記稿 第4期11』(雄山閣 1996)
p314 那賀郡之三 小平村の項 「入国の後は安藤彦四郎知行にて今に替らず」とありますが、木村もしくは和田姓について記述なし。
『埼玉県人名選』(埼玉県人会 1938)
附各地各種埼玉県人会名簿 木村の項に、児玉郡出身者5名の記述があるが、該当なし。
『埼玉県名士録』 (明治写真協会 1914)
p93-102 児玉郡の項に、木村、和田姓を確認できず。
『都道府県別資産家地主総覧 埼玉編』(渋谷隆一編 日本図書センター 1988)
『埼玉郷友誌』(埼玉郷友誌編纂所 大正10年刊の複製)
『埼玉人事商工名鑑』 (埼玉新聞社 1957)
『貴族院多額納税者議員互選人名簿 昭和7年6月1日現在』〔埼玉県立浦和図書館(製作) 1988)
『埼玉壱百人』(埼玉通信社 1917)
『埼玉県史』(埼玉県郷土史編輯所 1939 )
『戦争のいしぶみ 埼玉県』(海老根功著 埼玉新聞社 1985)
事前調査事項に秋平小学校の碑文に名前があるということから、秋平小学校に問い合わせる。
「明治32年の石碑があり、本文概要は学校が手狭になり改築の発起人となった人々の名が記されているもの。沿革で確認したところ、同年に改築の事実あり。記載されている人名は100名くらいあり。」との回答を得る。
- 事前調査事項
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「埼玉苗字辞典 2」(茂木和平 2006)
「秋平小学校明治三十二年碑に小平・木村伊勢松」あり。
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『児玉記考 後編』(中山風声堂 1901)
- 『埼玉苗字辞典 4』(茂木和平 2008)
- キーワード
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- 木村 政明(キムラ マサアキ)
- 木村 伊勢松(キムラ イセマツ)
- 本多 正好(ホンダ マサヨシ)
- 児玉町-人物
- 埼玉県-郷土資料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000100058