レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/02/19
- 登録日時
- 2009/05/09 02:11
- 更新日時
- 2009/05/12 15:30
- 管理番号
- 埼熊-2008-143
- 質問
-
未解決
平安時代の貴族「藤原光隆の後裔藤原経隆は尊願房である」と願生寺の年歴に記載されているが、藤原経隆が出家したという記録が見あたらない。その根拠を知りたい。出典は「大高山願生寺年歴」(妙高市)。
- 回答
-
当館の資料では、藤原経隆につながる記述は見つからなかった。新潟県立図書館への照会を案内した。
光隆に該当する記述のあった資料は以下の通り。
『講談社日本人名大辞典』〈藤原光隆〉あり。鎌倉時代の画家の〈藤原経隆〉あり。質問の人物と同一人物かどうかは不明。
『人物レファレンス事典2 古代中世近世』
『国史大系(尊卑文脈)第2編』p48の〈(藤原)光隆〉。
『系図纂要 第4冊』ではp673の「(壬生)光隆」。
『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ-ん』〈藤原光隆〉
『角川日本姓氏歴史人物大辞典16 富山県』に〈藤原光隆(ふじわらのみつたか)〉あり。
- 回答プロセス
-
『国史大系 別巻2 尊卑分脈索引』では「經隆」の表記。「經隆」で探す。
『尊卑分脈 第1編』 (藤原)經隆は先祖の道隆までに光隆の名なし。
『第2編』p47の(藤原)經隆は良門までに光隆の名なし。p76の(藤原)經隆は高藤までに光隆の名なし。p446の(藤原)經隆は真作までに光隆の名なし。p459の(藤原)經隆(經孝)は貞嗣までに光隆の名なし。
「光隆」から子孫を探す。
『第1編』p288の(藤原)光隆は系図最後。p358の(藤原)光隆は系図最後。
『第2編』p48の(藤原)光隆は子孫に経隆の名なし。兄隆能の孫に経隆の名あり。
『第2編』p300、p311の(藤原)光隆は子孫に経隆の名なし。p534の(藤原)光隆は系図最後。
「尊願房」は索引になし。
『系図纂要 別巻3 法号・称号索引』は尊願房なし。
『系図纂要 別冊2 名諱索引』で(藤原)経隆を探す。
『第2冊』p546の(藤原)經隆は先祖の真作までに光隆の名なし。
『第4冊』p639の(藤原)經隆は先祖の冬嗣までに光隆の名なし。p680の(藤原)經隆は隆能までに光隆の名なし。p796の(藤原)經隆は高藤までに光隆の名なし。光房・隆光の名はあり。『第6冊』p18の(藤原)經隆は隆家までに光隆の名なし。
(藤原)光隆で探す。
『第3冊』p47の(藤原)光隆は後裔の記述なし。
『第4冊』p97の(藤原)光隆は後裔(伊達氏)に経隆の名前なし。p128の(藤原)光隆は後裔(伊達氏)に経隆の名前なし。
『第6冊』p108、p429の(藤原)光隆は後裔の記述なし。
願生寺から探す。
《NDL-OPAC》を検索すると『続真宗大系 18』に越後願生寺御教誡あり。
「大系真宗史料文書記録編 11」「新編真宗大系 別巻 〔第5〕 」は所蔵なし。
《Google》を〈願生寺 & 妙高市〉で検索。《小松短期大学 由谷研究室 北陸宗教文化学会シンポジウム》における記述に平出願生寺 あり。「妙高市新井の願生寺(旧・証念寺)ほか。願生寺は、北信濃を経て今の東本願寺新井別院の地にあった大寺院だが、17世紀後半に後述する高田の浄興寺と教義問題で論争となり(いわゆる小児往生問題)、異安心とされ廃寺となった。東本願寺は、その跡地に新井別院を築いた。追放された住持・栄誉ゆかりの証念寺がのち新井南郊外に移転し、1950年に願生寺の寺号が復活。[住職家は井上姓でなし]」とあり。
(http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/2007isobe.htm 2009/02/19最終確認)
『日本名刹大事典』に願生寺あり。「新潟県新井市除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1573-91)上杉氏に招かれて新井に移転した。」
この人が調査対象の藤原経隆=尊願房(坊)だとすると、活躍年代は1200年前後(鎌倉時代(1192-)初期となる。
『講談社日本人名大辞典』〈藤原光隆〉あり。平安後期~鎌倉時代の公卿。大治2年生まれ。父は藤原道隆。〈土佐経隆〉への参照として、〈藤原経隆〉あり。鎌倉時代の画家。
『人物レファレンス事典2 古代中世近世』〈藤原光隆〉あり。大治2年」(1127)~* 平安時代後期~鎌倉時代前期の公卿。
これにより、『国史大系 (尊卑文脈)第2編』p48の(藤原)光隆」に該当する。
経隆がこの人の後裔なら孫にあたるかと思われる。孫に慈隆(律師)、隆尊の名あり。
『系図纂要』には上の名前には該当がなかったので再調査する。
『系図纂要 第4冊』p673の「(壬生)光隆」に該当する。後裔に経隆の名前なし。ただし孫に慈隆(山、律師)、隆尊の名あり。
『人物レファレンス事典 郷土人物編 そ-ん』に〈藤原光隆〉あり。「平安時代後期・鎌倉時代前期の公卿(権中納言)。左大臣藤原冬嗣、中納言藤原兼輔の裔。1127-1201」とあり。〈藤原経隆〉はなし。
『角川日本姓氏歴史人物大辞典 16 富山県』に〈藤原光隆(ふじわらのみつたか)〉あり。「家号は壬生。文治元年に越中国の知行国主に推挙。建久三年に太宰権帥に任じられ、同九年出家。」とあり。出家先については触れられていない。また〈藤原家隆(ふじわらいえたか)〉あり。「壬生中納言光隆の子。(中略)喜禎二年出家し仏性と称し」とあり。出家先については触れられていない。
『富山大百科事典 下』に〈藤原家隆〉あり。生没年1158-1237。出家については触れられていない。〈光隆〉に関しても出家については触れられていない。
新潟県妙高市新井について調査する。
『角川日本地名大辞典 15 新潟県』〈新井〉に「天正年間上杉氏の招きで信濃から新井へ移った願生寺は、浄興寺との間の異安心事件で…」の記述あり。
『新潟県史 史料編24 民俗・文化財3』 神仏等の通史だが記述は見あたらず。
新潟県立図書館へ照会依頼をする。
- 事前調査事項
-
質問者調査事項:①藤原経隆は養和元年(1181)に土佐守に任命され、その後土佐経隆として宮廷絵巻物の制作者として活躍、「西行物語絵巻 (日本の絵巻19)」の作者として紹介されている。②「尊顔房」については、「法然上人絵伝31」に登場する「津戸三郎為守」が尊願房と呼ばれてるのでそれとの関連も調査中。
質問者への確認事項:「日本名刹大事典」にある、「尊願坊」は該当の「尊願房」。出典の「大高山願生寺年歴」は願生寺で直接入手したもの。
- NDC
-
- 個人伝記 (289 9版)
- 北陸地方 (214 9版)
- 寺院.僧職 (185 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 藤原 経隆(フジワラ ツネタカ)
- 尊願坊(ソンガンボウ)
- 人物-平安時代
- 寺院-願生寺(ガンショウジ)-妙高市-新潟県
- 僧侶
- 新潟県-歴史
- 照会先
-
- 新潟県立図書館
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000054578