レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年09月05日
- 登録日時
- 2015/11/06 17:28
- 更新日時
- 2015/11/26 14:37
- 管理番号
- 岩手-247
- 質問
-
未解決
藤原秀衡の葬儀について、葬儀の日・場所・規模(参列者数、来賓者数)を知りたい。
- 回答
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藤原秀衡の葬儀について記載のある資料は、見つけられなかった。亡くなった時の記録としては『吾妻鏡』『玉葉』が挙げられるが、どちらも勝者側の記録であり、葬儀についての記載はない。参考資料『奥州藤原氏』によると、平泉炎上に伴い史料は焼失していて、奥州藤原氏研究の大本(おおもと)となる史料は極めて不足しているということだった。
死亡時の記録と史料焼失について記載された資料は次の通り。
【死亡時記録について】
『藤原秀衡』
⇒p204~210「秀衡逝く」
《『吾妻鏡』の文治三年十月二十九日条は、今日、秀衡入道、陸奥国の平泉館において卒去す、と記している。この没した日付は、『玉葉』にも同月同日になっているし、信用できそうである。(略)》
『奥州藤原史料』
⇒p156 『吾妻鏡』『玉葉』の該当部分掲載あり。
【史料焼失について】
『奥州藤原氏』
⇒p1~33「第一章 奥州藤原氏最期の日」
《平泉館炎上に伴い同館にあった奥羽両国の「省帳、田文」その他文書類も焼失した》
《奥州藤原氏研究の大本となる史料(「彼ら自身の手になる史料」をいう)は極めて不足しており、研究上の隘路となっているのである》
『奥州平泉文書』
⇒「奥州平泉文書総説」(ページ付なし)
《「吾妻鏡」によると鎌倉軍の泰衡追撃があまりに急激であり、泰衡は平泉に止まることが出来ず、町・邸宅に火を放って倉皇として退却したので、その屋形は灰燼に帰し、一切の記録を失ったといっている。恐らくこの時記録所のような所が焼失したために、藤原氏の政治・財政記録は殆ど残らないのであろう》
- 回答プロセス
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・当館郷土資料書架 藤原氏関係資料をブラウジング。
・調査資料に記されていた参考文献の内容を確認。
- 事前調査事項
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- 『藤原秀衡』高橋 崇∥著 人物往来社∥出版 1966年 (http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001080381-00)
- 『奥州藤原史料』東北大學東北文化研究會∥編 吉川弘文館∥出版 1969年 (http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I000034357-00)
- 『奥州藤原氏』高橋 崇∥著 中央公論新社∥出版 2002年 , ISBN 412101622X (http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003067895-00)
- 『奥州平泉文書』岩手県教育委員会∥編 国書刊行会∥出版 1985年 (http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001749152-00)
- キーワード
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- 藤原秀衡
- 奥州
- 平泉
- 吾妻鏡
- 玉葉
- 葬儀
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000183325