レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年02月12日
- 登録日時
- 2016/01/21 16:46
- 更新日時
- 2016/03/11 13:38
- 管理番号
- 埼熊-2015-088
- 質問
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未解決
秋田城柵には渤海国からの使者が度々訪れていた。その使者が、当時の主要街道である東山道をどのように通り(または通らなかったか、別のルートだったか)京都までたどり着いたのか知りたい。
- 回答
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該当する記述のある資料は見つからなかった。
- 回答プロセス
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調査済み資料は以下のとおり。
『古代東山道の研究』(一志茂樹著 信毎書籍出版センター 1993)
p445-454「第2篇 第3章 第3節 (附)渤海国人の来着」
p448に「それまで(※宝亀11年の、北陸道における渤海使に対する態勢の整備以前)は、使節が漂着した場合は、その国、もしくは然るべき国の「便処」に「安置供給」した上、入京せしめることを例としてゐたのであるが、(後略)」とあり、注に「続日本紀」の関係する条の引用あり。
『あづまのやまのみち 東山道』(栃木県教育委員会編 栃木県教育委員会 2006)
p29 東山道は官道として機能しており、官道には16kmごとに中継地点として駅家が配置され、「地方から中央への報告では以下の場合に駅家が使われます。(1)国外移住者が帰還した場合、あるいは外国人が帰化してきた時(略)この他にも遠距離の国からの朝集使(国郡の政務状況や国郡司の移動を年度ごとに中央に報告する使)も利用できることになっていました。」との記述あり。
『古代東北と渤海使』(新野直吉著 歴史春秋出版 2003)
p46「天平11年7月13日という12年後にやはり出羽国に到着し、東北地方の日本海岸に来航したのである(中略)『続日本紀』の記述に従って経過を追うと、出羽に着いてから3か月と27日で入京した」とあり。
『古代日本と北の海みち』(新野直吉著 高科書店 1994)
p79「神亀四年に第1回渤海使が出羽に来た。」、p86-91「渤海鉄利人の慕化来航」の記述あり。
p93-「続く渤海の出羽来航」
渤海使壱万福ほか40名が光仁天皇に拝賀している記述あり。
『東北古代史の研究』(高橋富雄編 吉川弘文館 1986)
p184「天平18年、渤海人・鉄利あわせて1100余人が来朝、出羽に安置したものの放還(※はなちかえすこと。釈放。)したというのが最初で、ついで宝亀10年、同じく渤海・鉄利三五九人が来朝し、出羽で供給(※くごう:食料を提供する、もてなすこと)した上、検校使を派遣したが、その後放還している。」とあり。
『秋田の歴史』(新野直吉著 秋田魁新報社 1989)
p22「秋田城には白壁が用いられていたことが発掘調査の結果明らかになった。これは、地方住民の敬仰を考えただけでなく、外来の使節を最初に受け入れる役所としての形容を整ようとしたからであろう。」とあり、2回(いずれも秋田城以前)の渤海使節も「出羽国に来航したのである。」とあり。京都まで行ったという記述はない。
『福井県史 通史編 1 原始・古代』(福井県編集 福井県 1993)
p557「入京の規定」の見出しあり。
p558「軍防令・賦役令・儀制令によれば、外国使の一行は各国が徴発する兵士によって、国ごとにリレーされて送られ(逓送)、京まで護送された。そして、渤海使の入京にあたって、兵士のほか、車・牛なども用いられ、国郡に所在するさまざまな器物が用いられた。また、関市令によれば、「蕃客」が初めて関を通過する際には、関司と「当客の官人」(京より派遣された領客使)が所持品を記録して治部省に報告すること、途中に関がなければ、最初に通過する国の国司がこれに准じることになっていた。」とあり。
p559「天皇から国書や信物を受け取ると、「領帰郷客使」らに付き添われ、出航する北陸道の港をめざして帰国の途についた。途中の各国では入京時と同様に兵士(のちに駄夫)などによってリレーされ護送された。また、『延喜式』太政官によると、帰国時には馬が支給された。」とあり。福井県史の記述のため、松原の港へ戻る「北陸道」の記述しかない。
- 事前調査事項
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質問者調査済資料:
『秋田城跡』(伊藤武士著 同成社 2006)
『古代の道 完全踏査』(武部健一著 木下良監修 吉川弘文館 2004)
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 秋田市-遺跡・遺物
- 東山道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187310