レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007年04月18日
- 登録日時
- 2008/04/22 15:21
- 更新日時
- 2009/03/05 13:23
- 管理番号
- 山形県-2007-0018
- 質問
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未解決
関連画像の写真は”隅入り平角に片喰”の家紋と思われるが、酒井家の紋どころであれば何故信夫の里(福島県福島市)に存在するのか知りたい。
- 回答
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家紋は”隅入り平角に片喰 ”であることは下記資料①により確認できました。
また、庄内松山藩酒井家の紋所が”隅入り角(枡)に酢奬草紋”であることも下記資料②~⑤に写真や記述が見られます。庄内藩の定紋として”庄内片喰”が用いられ、この系で隅入り角に片喰、井筒に片喰を用いる家があるという記載(資料②)もありますが、定紋の”丸に片喰”以外の片喰紋については分かりません。資料⑦には酒井家が”三つ葵”から”かたばみ”の紋所となった由緒が記載されております。
松山藩と信夫の里を関連付けるものとしては、松山町史上巻(資料⑤)では、参勤交代や勤役(加番)のために江戸と行き来したことが記載されてます。天明7年の参勤交代の道筋を見ると、須賀川(御昼)⇒郡山(御泊)⇒本宮(御昼)⇒八丁目(御泊)⇒福島(御昼)⇒桑折(宿泊)・・・・・・・
となっており、信夫の里近くを通ったものと考えられます。 松山藩は庄内藩主初代 忠勝の次男 忠恒が初代で、正保4年(1647)庄内藩の支藩となってます。
範囲を広げて庄内藩と信夫の里について調べますと、資料⑥~⑧に下記の記述がありました。
・元和8年(1622)の最上氏改易の際、蒲生忠郷が鶴岡・大山・松根の三城を接収し、相馬利胤が亀ヶ崎城を接収し、そのうち大山・松根は廃棄され酒井氏に渡された。
・寛永20年(1643)に会津藩主加藤明成が改易になり、忠勝は若松城の接収を命ぜられ、騎馬200騎を率いて会津に乗り込み任務を果たした。
・参勤交代や国役のための往来が見られます。
資料④に掲載されております県指定文化財“紺糸威大鎧(松山藩主三代酒井忠休公の所用と推定)に、福島の古美術商より松山町が購入し、常時松山町資料館に展示しているという記載がありますが、いずれにしても、何故”隅入り平角に片喰”の家紋が信夫の里に存在するのかという点を解明する具体的な資料は探せませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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江戸初期まで伊達氏が一帯を平定しておりその関係ではとの話もある。
信夫の里地区の支配者は伊達氏の後、蒲生氏、上杉氏、本田氏、堀田氏と変わりが激しく、板倉氏は幕末まで続いた。
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 世界史.文化史 (209 9版)
- 参考資料
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①「家紋の文化史」大枝史郎著/講談社/1999(288.6/オオ)P172
- ②「家紋でたどるあなたの家系」千鹿野茂編/続群書類従完成会/1995(288.6/チカ)P80
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③「山形県の文化財」山形県文化財保護協会編/ 山形県教育委員会 /2002(K709.2/ヤマ)P323
- ④「やまがたの文化遺産」山形新聞社/1991(K709.2/ヤマ)P284~285
- ⑤「松山町史」上巻(K220.2/マツ)口絵写真、 P238~239、 P244~250
- ⑥「山形県史」第2巻(K209/ヤマ)P149~152、 P160~163
- ⑦「鶴岡市史」上巻(YK232.1/ツル)P217~229
- ⑧「鶴岡市史資料篇」大泉紀年上巻(YK232.1/ツル)元和8年の項、寛永20年の項
- ⑨「荘内史年表」鶴岡市史編纂会編(K210/ツル)P64
- ⑩「庄内藩酒井家」佐藤三郎著/東洋書院/1991(YK288.3/サト)P114~118
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①「家紋の文化史」大枝史郎著/講談社/1999(288.6/オオ)P172
- キーワード
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- 隅入り平角
- 家紋
- 酒井家
- 片喰
- 松山藩
- 照会先
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- 松山町資料館
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000043748