レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年11月12日
- 登録日時
- 2020/01/08 17:56
- 更新日時
- 2020/05/13 10:55
- 管理番号
- 広県図2019193
- 質問
-
未解決
旧三原城二の丸と通り丁が陸続きになったのは,何年何月何日か。
- 回答
-
次の資料を確認しましたが,旧三原城二の丸と通り丁が陸続きになった時期に関する記述は見付かりませんでした。
『三原市史 第3巻 通史編 各説編 3』三原市役所/編集,三原市役所,2007【H21.41/Mi17/3ア】
p.360-367 三原城の略史
p.366-367 明治以降の変遷
p.367 「通り丁堀に面していた鍛冶曲輪とその北端は、明治四十三年(一九一〇)に木橋が架けられて新道に通じたが、(略)その後、橋の部分は陸続きとなり(略)」
二の丸と陸続きになったという記述はありません。
p.534-575 三原市の略年表
p.568 「1877 [明]10 通り丁の道が付け替えられ新道ができる。」
p.566 「1909 [明]42 天守台に公園が造られ、新道から旧三の丸の間に橋が架けられた。」
『史跡小早川氏城跡(三原城跡):史跡整備にかかる通り丁地区発掘調査報告書』三原市教育委員会/編集,三原市教育委員会,2015【H20.41/ミハラ1/V.17ア】
p.25 三原城の概略史
「『三原市史』によれば明治9(1876)年に城により分断されていた三原東町西町を接続するためこの「通り丁」を付け替えるよう内務省に願い出、翌明治10(1877)年に5月10日と20日の2日間それぞれ160人の町民による労働奉仕によって現在の市道に道が付け替えられたと記されている。」
『三原市史 第2巻 通史編 2』三原市役所/編集,三原市役所,2006【H21.41/Mi17/2ア】(前出)
p.849-851 道路網の整備
p.849-850 「旧三原城の天守台北側の堀に面した道路(通り丁)は、西国街道のうちであったが、東大手門と西大手門によって、城下町三原を東西に分断し、(略)」
上記『史跡小早川氏城跡(三原城跡):史跡整備にかかる通り丁地区発掘調査報告書』【H20.41/ミハラ1/V.17ア】の記述の出典であると考えられます。
『三原市史 第6巻 資料編 3』三原市役所/編集,三原市役所,1986【H21.41/Mi17/6ア】
p.652 旧三原城内通り丁道路の付替え 明治9(一八七六)
内務省への伺い文が掲載されています。
付図の三原城を確認しましたが,明治時期のものがなく,通り丁の付け替えによる変化については不明です。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 中国地方 (217 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 三原城
- 通り丁
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000272383