レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年4月6日
- 登録日時
- 2013/04/06 16:14
- 更新日時
- 2013/04/13 10:11
- 提供館
- 京都市図書館 (2210023)
- 管理番号
- 右中-郷土-59
- 質問
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解決
京都におけるマネキン産業について知りたい。
- 回答
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マネキンには和服に合わせた和装マネキンと,洋装のための洋装マネキンとの二種類があり,発祥が異なりますが,京都で発展したのは洋装マネキンです。
洋装マネキンの発祥はフランスです。大正時代前期,洋装の流行とともに,百貨店では競うようにマネキンが輸入されるようになりました。京都の丸物百貨店(当時は物産館)もそのひとつで,ここの修理を請け負ったのが,島津製作所でした。同製作所の標本部ではもともと人体模型の製作をしており,そのノウハウを生かして,国産マネキンの製作に取り掛かるようになりました。大正14年(1925)にマネキンの試作を開始,当初は石膏製でしたが,昭和3年(1928)には蝋製に,さらに昭和5年(1930),ファイバーを素材として,本格的な製作に入りました。昭和7年(1932)12月,三条工場内にマネキン専門工場を設け,流れ作業による量産方式がスタートしました。昭和8年(1933)には初めて大阪朝日会館で新作発表会を行い,以後は昭和17年(1942)まで年2回計17回京都・大阪・東京を始めとして各地で開催されました。昭和9年(1934)には京都市右京区山之内にも新工場を建設,昭和12年(1937)には従業員200人余,年生産6000体にものぼり,同業者が増加していく中でも国内市場の約85%を占めました。しかしながら,戦争の影響で,島津製作所は軍需工場となり,昭和18年(1943)4月,ついにマネキン人形の生産は中止され,翌年には完全にマネキンの製造販売は休止されました。
戦後,「島津マネキン」が復活する事はありませんでしたが,関係者によって三社に分散して,マネキンの製作が再開されました。それが,「七彩工芸(現七彩)」・「吉忠(現吉忠マネキン)」・「大和製作所(現ヤマトマネキン)」です。
「七彩」は「島津マネキン」の中核を担っていた島津良蔵・向井良吉・門井嘉衛らによって設立されました。「島津マネキン」の名称も受け継ぐ予定でしたが,アメリカ駐留軍下という事情もあって実現しませんでした。
「吉忠マネキン」は「島津マネキン」の在庫を引き取り,販売していました。当初は破損したマネキンの修理は外部に依頼していましたが,製作の依頼にも対応するようになるとじきに生産が追いつかなくなり,自社での製作も手がけるようになりました。このとき修理を請け負っていたのが「島津マネキン」にも協力していた藤林重高で,彼は後に「大和製作所」を設立しました。さらに後には,ここを離れた人たちによって,「大洋工芸」が設立されました。また,これら三社以外にも昭和3年(1928)創業の和装マネキンを取り扱っていた「松橋人形店」が「松橋マネキン」(現「マツハシ」)として昭和23年(1948)に再興されました。
昭和26年(1951),貸しマネキン制度が始まり,現在に至るまで日本のマネキンはレンタルが主流になっていきます。「吉忠」では貸しマネキンの増加に伴い,マネキン業としての特殊な業務が増加し,業績を上げていきました。
昭和27年(1952)には,七彩・吉忠・ヤマトの三社による「マネキン三社」が結成され,これを母体として昭和47年(1972)に日本マネキンディスプレイ商工組合(JAMDA)が結成されました。
1950年代後半から1960年代前半には,洋装マネキンを扱う企業が相次いで誕生し,昭和32年(1957)には,昭和8年(1933)創業以来和装マネキンに取り組んでいた「彩光マネキン(現彩ユニオン)」が洋装マネキンに着手しました。
素材に関しては戦後も変わらずファイバーが使われていましたが,供給が追いつかなくなり,各社で軽くて強い新素材の研究が進められました。「七彩工芸」ではビニクロン・ゲル製,「吉忠マネキン」では塩化ビニール製のマネキンを開発しましたが,それぞれに欠点が見つかり,この段階では不成功に終わりました。その後,「七彩工芸」・「吉忠マネキン」をはじめとした全国各社がそれぞれFRP(繊維強化プラスチック)での研究を進め,1960年代初頭にはマネキン業界全体でFRP製マネキンが浸透しました。ただ,FRPは自然界に分解しないため,廃棄の仕方に課題が残っており,現在は各企業で素材の研究や,リサイクル方法の工夫などに取り組んでいます。
現在,JAMDAに加盟している京都のマネキン企業は3社のみですが,電話帳には20社の記載があります。
- 回答プロセス
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●まずは【資料1】を確認。
「大正11年頃,丸物百貨店(当時は物産館)がフランス製マネキンを使用し,修理を島津製作所に依頼したことから,同製作所が国産化に進出」とあり。
●“島津製作所”が始まりであることがわかったので,【資料2】~【資料5】を確認。
【資料2】島津製作所でのマネキン製作の様子やマネキンそのものの白黒写真多数あり。
●“マネキン”のキーワードより【資料6】~【資料8】を確認。
【資料7】【資料8】はほぼ同内容。主にマネキンのデザインの変遷についての内容だが,歴史についてもまとまっている。島津マネキンや比較的新しいリアルマネキンの白黒写真が掲載されている。著者の藤井秀雪は「七彩」で長年広報担当をしていた。
●“百貨店”より【資料9】を確認。
百貨店と取引のあった“有名取引業者”のリストと簡単な説明あり。同シリーズ第2,3,5巻も合わせて確認。
「歌舞伎屋人形店マネキン人形部」,「島津製作所マネキン部」「かぎ屋人形製作所」の名が挙がっている。
●京都の商工業・産業より【資料10】~【資料13】
【資料12】【資料13】には,マネキン人形を取り扱っている営業収益が30円以上の納税者として「島津製作所」「野崎商店」「ミス・ニッポン社」などの名が掲載されている。
●日本マネキンディスプレイ商工組合よりホームページを確認。
“マネキン博物館”に【資料14】の内容が掲載されている。マネキン全般のことについて大変詳しい。製作過程についても写真あり。
会員企業の紹介にはホームページのURLも記載されている。「七彩」「吉忠」「彩ユニオン」のホームページではマネキンの廃棄に関連した環境への取り組みについても紹介されている。
●“京都初”より【資料15】【資料16】を確認。
簡潔にまとまっていて分かりやすい。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 企業.経営 (335 9版)
- 商業経営.商店 (673 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『京都大事典』(佐和 隆研/[ほか]編集 淡交社 1984) p863 “マネキン”
- 【資料2】『株式會社島津製作所改組二十年記念帖』(上山 正英/編集 島津製作所 1937)
- 【資料3】『島津製作所史』(島津製作所 1967) p57~59 “島津マネキンのおいたちと発展”
- 【資料4】『科学とともに100年 島津製作所のあゆみ』(島津製作所 1975) p68,69 “マネキン人形のこと-異彩を放つ島津良蔵の仕事-”
- 【資料5】『科学技術で未来を拓く 島津製作所130年の歩み』(島津製作所 2005) p14 “マネキンの分野に進出”
- 【資料6】『マネキン美しい人体の物語』(欠田 誠/著 晶文社 2002) p55~96 “第三章 日本のマネキンの歩み”
- 【資料7】『Aube 比較藝術学 03』(京都造形芸術大学比較藝術学研究センター/編集 淡交社 2008) p72~88 “マネキンにまとわせる 藤井秀雪”
- 【資料8】『モノ学の冒険』(鎌田 東二/編著 創元社 2009) p257~280 “モノと感覚価値-マネキン研究の立場から 藤井秀雪”
- 【資料9】『日本百貨店総覧 第1巻 日本百貨店総覧 昭和12年版』(百貨店新聞社/編 ゆまに書房 2009) p202,220
- 【資料10】『京都の新興工業』(京都商工会議所 1933) p111~116 “店頭の顧客を魅了する商業美術の精マネキン人形”
- 【資料11】『京都商工要覧 昭和13年版』(京都商工会議所 1938) p445 “第十二節 人形,玩具”
- 【資料12】『京都商工人名録 昭和13年版』(原澤 久男/編輯 京都商工人名録発行所 1938) p225 “人形,玩具”
- 【資料13】『京都商工人名録 昭和15年版』(原澤 久男/編輯 京都商工人名録発行所 1940) p288,289 “人形,玩具”
- 【資料14】『マネキンのすべて』(日本マネキンディスプレイ商工組合 1996) p47~64 “日本からの流れ”“戦後マネキン業界の復興と発展”
- 【資料15】『それは京都ではじまった』(黒田 正子/著 光村推古書院 2005) p51~55 “マネキン”
- 【資料16】『京の名脇役』(京都新聞出版センター 2007) p6~9 “マネキン”
- キーワード
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- マネキン人形
- 島津製作所
- 吉忠マネキン
- 七彩
- ヤマトマネキン
- 彩ユニオン
- 照会先
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- 日本マネキンディスプレイ商工組合(http://jamda.gr.jp/)(2013年4月6日確認)
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000130085