レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/11/28
- 登録日時
- 2019/12/26 00:30
- 更新日時
- 2019/12/26 00:30
- 管理番号
- 滋2019-0031
- 質問
-
解決
古事記によると、仲哀天皇は、成務天皇が都を置いた近江から九州に移したが、その理由を知りたい。
- 回答
-
古事記には、次のように書かれています。
「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、穴門(あなと)の豊浦宮と筑紫の訶志比宮(かしひのみや)とに坐して、天の下を治めき。(途中略)故、天皇、筑紫の訶志比宮に坐して、熊曾国を撃たむとせし時に、(以下略)。」
上記の引用した『新編日本古典文学全集 1』の頭注によると、帯中日子天皇は「第十四代仲哀天皇。倭建命の子。」と、解説しています。
大久間喜一郎の論文「仲哀天皇記の構成」では、次のように説明しています。
「日本書紀によれば、仲哀天皇は即位の翌年、角鹿に仮宮を建てて坐したが、やがて南海道を巡狩し、紀伊の国にしばし住んだが、熊襲反乱の報に接し穴門に赴いた。そこで気長足姫尊(おきながたらしひめ)を角鹿より呼び寄せて、九月には穴門豊浦宮を造営してそこに約七年半ほどあって、仲哀八年の春には筑紫に幸し、橿日宮(香椎宮)に坐した。」
ただし、前掲の大久間喜一郎は同上の論文に、「古事記の記事では、穴門の豊浦宮や筑紫の詞志比宮を皇都としたというが、如何にも唐突なので書紀の記事を検証したのであったが、納得しがたいことは古事記においても書紀においても同様である。このような不合理な点から見ても、仲哀天皇の治世というものが果たして有ったのかどうか、甚だ疑わしいと言わざるを得ない。」と書いています。
同様に、『歴代天皇・年号事典』および『天皇皇族歴史伝説大事典』では、上記のことがらが『古事記』『日本書紀』に伝えられるとしつつも、成務・仲哀両天皇について、本当に実在したかどうか疑わしく、後世に歴代天皇として付け加えられた可能性があるとされています。
その上で遷都した理由を求めますと、仲哀天皇が、九州南部の反乱勢力・熊襲(くまそ)の征伐に向かったためと考えられます。
『歴代天皇・年号事典』、天皇皇族歴史伝説大事典』および『歴代天皇総覧』の記述をもとにまとめますと、第13代 成務天皇は(先代の景行天皇が宮を移した)志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや:現在の大津市坂本穴太町付近)にて治政を行いました。
つづく第14代 仲哀天皇は九州南部の反乱勢力・熊襲(くまそ)を征伐するため穴門豊浦宮(あなとのとよらのみや:現在の山口県下関市)へ、さらには筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや:現在の福岡県福岡市)へと進出し、この地で命を落としたとされます。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 小説.物語 (913 8版)
- 参考資料
-
- 1 歴代天皇・年号事典 米田雄介∥編 吉川弘文館 2019.8 G-2884-ヨ ①についてp.40-44、②についてp.4-9
-
2 歴代天皇総覧 笠原英彦∥著 中央公論新社 2001年 G-2884-カ p.25-30 -
3 天皇皇族歴史伝説大事典 志村有弘∥編 勉誠出版 2008年 R-2884-シ p.50-52、54-57 -
4 皇室事典 皇室事典編集委員会∥編著 角川学芸出版 2009年 R-2884-コ p.35-40 -
5 天皇の歴史 01巻 神話から歴史へ 講談社 2010年 G-2884-1 p.380-384 -
6 新編日本古典文学全集 1 古事記 小学館 1997年 G-9180-1 p.241-243 -
7 仲哀天皇記の構成,明治大学教養論集,268巻 大久間喜一郎∥著 明治大学教養論集刊行会 1994年 p.107-120
- キーワード
-
- 天皇
- 古事記
- 日本書紀
- 成務天皇
- 仲哀天皇
- 志賀高穴穂宮
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271605