レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年04月01日
- 登録日時
- 2020/04/19 15:53
- 更新日時
- 2020/05/06 14:57
- 管理番号
- 1911
- 質問
-
解決
湯浅竹次郎という人について調べている。キーワード「軍神」と「講道館柔道」を調べて欲しい。また、生死不明とあるが死んだ日が知りたい。なお、提供は全て朝日新聞記事に限る。
- 回答
-
以下の資料を提供
1.『明治ニュース事典 7 明治36年~明治40年』001421056(071/マ)
データベース聞蔵Ⅱビジュアルより
2.『1904年5月9日 東京/朝刊 p3』(出撃記録)
3.『1905年1月26日 東京/朝刊 p2』(追悼会)
4.『1905年12月13日 東京/朝刊 p6』(講道館柔道)
- 回答プロセス
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インタビューを進めたところ事前調査で湯浅竹次郎という人は日露戦争の出撃で生死不明になっていることが分かった。
1904年5月3日に出撃したとあるが、日露戦争のこの日付あたりはどこに、どう出撃していたかをおおまかにインターネットで調べた。
まずは朝日新聞の縮刷版を探しに行き、1.の資料で日露戦争の出撃した戦いの項目からp481を確認。
データベース聞蔵Ⅱビジュアルにて「湯浅竹次郎」と検索し、17件がヒットする。
1件ずつ質問者と確認し、2.~4.の記事を提供。
湯浅竹次郎は出撃した後、生死不明になっているため、正しい没年日が不明であるが、翌年に親族たちによる葬儀と追悼式が行われている。
これにより翌年には死亡扱いとされる。
1.の関係する項目を見ても、乗っていた船のほとんどの者が生死不明。
その後、ロシア軍による沈没した船からの遺体引き揚げが行われたが身元判別ができず。
※「軍神」については「湯浅竹次郎」では出てこないとお伝えしたところないならないで構わないと仰ったのでそれ以上調べていない。
〈係より〉
データベース聞蔵Ⅱビジュアルより
5.『1905年1月17日 東京/朝刊 p2』(閉塞隊運命決定)
本文から抜粋
昨年五月三日第三回旅順口閉塞の際生死不明となりたる海軍少佐野村勉氏外六十八名は同日戦死し、海軍機関少監岩瀬正氏は同日負傷し十月十九日旅順口露國病院に於いて死亡せること分明となりたるに依り昨日其筋より各遺族に通知を發したり其氏名及び常時の所属等左の如し
・・・
相模丸 厳島 海軍少佐 湯浅竹次郎
となっていることから、1904年の作戦にて戦死扱いにすると遺族に通知を1905年1月17日にはしていたようである。
また、朝日新聞記事ではないが、端船転覆後ロシア軍の攻撃に被弾し戦死したとなっている湯浅竹次郎は、ロシア軍の捕虜になっていたという異説が下記の資料からわかった。
こちらの資料も日付の記載がないため、正確な没年日はわからないが、旅順口閉塞作戦が決行されてすぐに死亡したわけではなかったようである。
「軍神」というキーワードにもかかってくるので詳しく記載する。
データベース国立国会図書館デジタルコレクションより
6.『軍神湯浅少佐と海戦秘話 昭和九年七月十日発行 p67~p77』(意外の事實~不幸な湯淺家)
この資料によると、戦役後の湯浅の友人の山田慥亭氏の元にワシリイ=エヌ=ニコーリースキー氏から書簡が寄こされていた。
書簡の内容を要約すると、日本の閉塞船が港口に近づいてきたので砲撃し、転覆した短艇から五六人の日本兵が上陸してきた。
彼らは激浪と戦って上陸したため疲れ切っており、間もなく人事不省の裡に陷って営舎に運ばれた。その中に湯浅竹次郎がいた。
湯浅に葡萄酒やコーヒー、食べ物を提供したが、小さなコップに入った葡萄酒しか飲まず、それ以外を辞退。
暫くすると湯浅は持っていた時計の紐で縊死を謀ったので、厳重に監視した。
その後、要塞司令官の命令で他の日本人捕虜の収容されていたガウブトワフトへ移送されたが、一切口に入れる物を拒絶し、衰弱していったため、病院に収容された。
病院でも何も口に入れようとしないので、やむなく器械で栄養物を注入して生かしていたが、看護婦が目を離した隙に二階の窓から崖下へ身を投げた。
それでも命を取り止めてしまったため、飲食や手術も拒み、そうして死んだとニコーリースキー氏は聞いたようである。
ニコーリースキー氏は最後に湯浅をこのように高く評価していたようである。
本文から抜粋
自己の欺くの如くに至つたことは素より自分の不覺からではなく、飽くまで忠勇を盡さんとして歇むに止まれぬ羽目に陥つたのであるとは云え、
俘虜となつて、生耻を掻かんよりは侍らしい死に方をしようとして、彼は死んで了つたのであります。
私は、此の偉大なる人を記憶する事を深く名誉とします。
6.の資料の著者は書簡の受領者の山田氏を尋ねたが、行方がわからずこれ以上の情報収集を断念したようである。
また、「講道館柔道」についての歴史や、湯浅竹次郎が五段(戦死の確認を待って六段を追贈)であったことが確認できた。
7.『公益財団法人講道館』[http://kodokanjudoinstitute.org/]
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (071)
- 参考資料
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明治ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版部 編 , 毎日コミュニケーションズ. 明治ニュース事典 第7巻 (明治36年-明治40年). 毎日コミュニケーションズ, 1986.(071/マ)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001782978-00
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明治ニュース事典編纂委員会, 毎日コミュニケーションズ出版部 編 , 毎日コミュニケーションズ. 明治ニュース事典 第7巻 (明治36年-明治40年). 毎日コミュニケーションズ, 1986.(071/マ)
- キーワード
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- 湯浅竹次郎
- 軍神
- 講道館柔道
- 生死
- 日露戦争
- 朝日新聞
- 第三回旅順港閉塞作戦
- 相模丸
- 一般書
- その他
- 命日
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000280776