レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/10/07
- 登録日時
- 2015/07/28 18:54
- 更新日時
- 2015/10/02 13:22
- 管理番号
- 埼熊-2015-022
- 質問
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解決
長篠の戦いで、織田信長が武田勝頼の騎馬軍団を破った勝因として挙げられている「馬防柵(ばぼうさく)」と「鉄砲三段撃ち」は、織田信長と明智光秀のいずれが考えたのか知りたい。
- 回答
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織田信長が考えたものとする資料のほか異説があった。次の資料を紹介した。
『戦国合戦大事典 3』(戦国合戦史研究会編 新人物往来社 1989)
p143「信長・家康は、その日(天正3[1575]年5月15日)、岡崎城において、(武田)勝頼を迎え撃つ作戦を練っているが、おそらく、鉄砲と馬防柵によって武田軍を殲滅するというプランの大筋は、その夜、決まったものと思われる。」
p146「三段撃ちというのは、(中略)「三段式装填法」などとよんでいる。(中略)戦術面において鉄砲が大きな意味を持つようになったのは、このような信長の「三段式装填法」の採用があったのである。」
『国史大辞典 10』(吉川弘文館 1989)
p588「武田軍の得意とするのは騎馬戦法であったので、信長は連子(れんご)川の西方に馬を塞ぐ柵を構え、その後ろに諸部隊を布陣させた。」「信長は鉄砲隊を三段に重ねて、(中略)連続的に火縄銃を使用する戦法をあみだした。」「信長は武田軍と戦うため岐阜を出る時からこの戦法を考えており、(後略)」
『長篠の戦 新書戦国戦記 6』(高柳光寿著 春秋社 1978)
p109「「本田家武功聞書」には、(中略)(信長が)家康と会議を開いたとき、本多百助信俊が末座から進み出て、長篠に柵をつけて戦争したらどうでしょうといった。」
p110「本多百助が進言したというのも滑稽である。信長は岐阜出発の当時、すでにこの計画を立てていたことは明らかである。」
『その時歴史が動いた 2』(NHK取材班編 KTC中央出版 2000)
p77「信長の一代の事績を誌した『信長公記』という書物には、鉄砲の三段撃ちの記載は、ただの一行も見られない。(中略)もし長篠の戦いイコール鉄砲の三段撃ちが正しいとすれば、この書物の中に、当然三段撃ちの成果が書き残されていなければならないはずだ。だが、一字も書き残されていない。」
p81「それはのちの世で、信長が戦った軍記物を面白くするために、作者たちがフィクション化していったせいだと思います。(中略)信長をヒーローとして面白く描くために、鉄砲の三段撃ちを強調して書いたことが、結果として史実と誤解されて伝わったと思います。」
『宝島 別冊 1468(2007年10月15日)』(宝島社 2007)
p16 馬防柵は「馬を柵で物理的に止めたというのではなく、そこにある堀を含む構築物全体によって進攻を停止させ、またその柵を利用することにより命中精度の高い射撃を追求したと推測できる。」
p15 三段撃ちについて、「効率という面で考えると、三人でチームを組み、一人が射撃を行い、あとの二人が弾込めと火縄への点火等をして順番に銃を射手に手渡しするとしたら、こちらの方が圧倒的に効率がいい。」「馬防柵の 内側の陣地で、鉄砲を持った足軽が三人で順番に動くとしたら、結構な空間を必要とするが、弾込めをした鉄砲を手渡すだけならば狭くても可能である。」
p16「長篠合戦図屏風を見ても、武田軍が馬防柵に引っかかっている絵は実は存在しない。同様に、三段での射撃もされていない。」
- 回答プロセス
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参考図書のほか、自館目録を件名〈長篠の戦い〉〈長篠合戦〉等で検索した結果、該当した資料を確認した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『戦国合戦大事典 3』(戦国合戦史研究会編 新人物往来社 1989) , ISBN 4-404-01629-8
- 『国史大辞典 10』(吉川弘文館 1989) , ISBN 4-642-00510-2
- 『長篠の戦 新書戦国戦記 6』(高柳光寿著 春秋社 1978)
- 『その時歴史が動いた 2』(NHK取材班編 KTC中央出版 2000) , ISBN 4-87758-188-X
- 『宝島 別冊 1468(2007年10月15日)』(宝島社 2007)
- キーワード
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- 長篠の戦
- 織田 信長(オダ ノブナガ)
- 明智 光秀(アケチ ミツヒデ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000177817