レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020/02/18
- 登録日時
- 2020/03/28 00:31
- 更新日時
- 2020/03/28 00:31
- 管理番号
- 6001043231
- 質問
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解決
寛政頃に木村蒹葭堂が伊勢長島川尻村から大坂に戻ったらしい。帰坂した時期がいつか、また帰坂後の居住地がどこか知りたい。
- 回答
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次の資料に寛政年間の蒹葭堂の転居に関する記述がありました。
・『蒹葭堂小傳』(高梨光司/著 高島屋蒹葭堂會 1926.11)
「蒹葭堂年表」(p.1-14)
寛政2年10月「伊勢国長島領川尻村に轉居す」(p.11)
寛政3年9月「川尼(ママ)村を廃し、大津京都を経て、大阪に歸着」(p.12)
寛政3年11月「川尻村に歸る」(p.12)
寛政5年1月「川尻村を廃し」(p.12)
寛政5年2月「大阪に歸着す」(p.12)
寛政5年2月以降は、転居に関する記述はありませんでした
また「十二 酒過造の奇禍と伊勢移住」(p.101-109)、「十三 蒹葭堂の晩年」(p.109-119)にも記述がありました。
「寛政二年秋蒹葭堂は、一家を挈げて、伊勢長島領川尻村に移居したのであつた。」(p.107)
「蒹葭堂が伊勢長島領川尻村から、再び大阪へ歸ちて來たのは、寛政五年二月で、彼が五十八歳の時であつた。」(p.109)
また大坂に戻った後の居住地については以下の資料に記述がありました。
・鎌田春雄著「蒹葭堂の遺蹟と瓶橋」『古本屋 8』(荒木伊兵衛書店 1929.12)p.4-7
「木村蒹葭堂の堀江居住はいつまでなりしか判明せざれど寛政二年十月伊勢長嶋に轉居するまで此處にありしことは事實にして寛政五年に歸來せる際なほこゝにありしや否やは明かならず享和二年には呉服町天満屋助の借家住たり。」(p.5)
・『完本蒹葭堂日記』([木村蒹葭堂/著] 藝華書院 2009.5)
有坂道子/著「木村蒹葭堂補伝」(p.553-556)に次の記述があります。
「火事ののち[寛政三年]十一月十七日に大坂から川尻村へ戻ってすぐ、地理学者の長久保赤水にあてた書状に「来春なとは帰坂も可仕候哉と内々相念し申候」と記している。ただし現存の『日記』によると、その一年以上もたった寛政五年(一七九三)二月十一日明六ツ時に大坂へ「帰宅」している。帰坂当初は備後町三丁目に仮寓したが、まもなく三月九日呉服町南入へ落ち着いた。」(p.558)
・『日本南画論攷』(吉沢忠/著 講談社 1977.8)
第4部「上方の南画」「如意道人蒐集書画帖について」(p.367-374)
伊勢山田の如意道人が書画を求め全国を渡り歩いて集めた「如意道人蒐集書画帖」(出光美術館蔵)について記される中で、蒹葭堂の住所について次の記述があります。
「本書画帖には、なかには自筆のものも何名かあるが、如意道人の筆になる作家の住所録ともいうべきものが附随している。(中略)如意道人筆になるその住所録は次の如くである。(中略)大坂備後町二丁目隱宅 本家呉服町 木村吉右衛門 蒹霞(ママ)堂」(p.370-371)
また、この画帖には「木村蒹葭堂筆彩竹図」が収録されており、如意道人が蒹葭堂を訪れた日について『蒹葭堂日記』から、寛政五年一月二十日、二月廿一日から二月廿四日とし、次のように記されています。
「一月二十日の如意同人の蒹葭堂訪問は川尻村滞在中のことと思われ、二月廿一日以降の訪問は、蒹葭堂の帰坂まもなくのことであり、その住所は本書画帖に附属する住所書に「大坂備後町二丁目隠宅」とある仮住居であろう。」(p.369)
〔事例作成日:2020年2月18日〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 10版)
- 参考資料
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- 蒹葭堂小傳 高梨光司著 高島屋蒹葭堂會 1926.11
- 古本屋 荒木伊兵衛書店 荒木伊兵衛書店 7-10,臨増
- 完本蒹葭堂日記 [木村/蒹葭堂∥著] 藝華書院 2009.5
- 日本南画論攷 吉沢忠著 講談社 1977.8
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000279693