レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年5月8日
- 登録日時
- 2021/12/14 18:42
- 更新日時
- 2022/03/30 15:12
- 管理番号
- 埼久-2021-058
- 質問
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解決
日光社参時の房川船橋に使用した船の数について知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介した。
『日光街道繁昌記』(本間清利著 補訂版 埼玉新聞社 1980)
p173に「はじめは大雨があれば流失してしまう簡単な規模構造であったとみられるが、次第に大仕掛な舟橋を仮設するようになった。」とあり。また、船の数あり。
新井浩文著「資料紹介『房川船橋絵図』について」(『埼玉県立博物館紀要16』p93-120 埼玉県立博物館 1990.3)
埼玉県立博物館が入手した舟橋図について、概要や構造、写真が掲載されている。
p94に安永5年の「房川舟橋絵図」について「イ 船橋の構造」の節に、「I 高瀬舟(五四艘)を川上に舳先を向けて並べ」とあり。
p97に文政年度の「房川舟橋絵図」に記載されている説明書が紹介されており、「敷船」の説明部分に「大■〔舟へんに帯〕船を三拾四艘、舳先を川上之方江向相並、」とあり。
『久喜市栗橋町史 第1巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2015)
p337-338「船橋」あり。
「享保社参では、船を五一隻横に並べて浮かべ、それぞれを鎖で連結して二寸板を敷き、その上に菰や土をのせ、砂をかぶせて大綱を鎹で留めて河岸に固定したという(後略)。」
『日本交通史論叢』(大島延次郎著 法政大学出版局 1969)
p279-282「房川渡と栗橋宿の発達」の章の「六 舟橋」に、享保13年の吉宗の社参時には船51艘、天保14年の家慶の社参時には高瀬舟51艘を浮かべたとあり。
『鷲宮町史 通史 中巻』(鷲宮町編 鷲宮町 1986)
p324-325「栗橋の舟橋」
「享保一三年(一七二八)の社参時には、川幅一四二間(二五六メートル)の利根川には、鎖で連結した船五一艘が横にならべられたが(後略)」「また安永五年(一七七六)の社参時にも、享保十三年のときと同じく堅固な舟橋が架せられたが、社参に随行した大江義当は、『栗橋を舟橋に仕り候、舟五三艘の由に御座候』とその壮麗さに驚嘆していた。さらに天保一四年(一八四三)の社参には、高瀬舟五一艘で舟橋が架せられたが、(後略)」とあり。
- 回答プロセス
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1 《Japan Knowledge》(ネットアドバンス)で〈房川〉の意味を確認する。
2 自館所蔵を〈房川 & 舟橋〉〈栗橋 & 関所〉で検索する。
3 1の世界大百科事典〈房川渡〉を執筆した本間清利氏の著作にあたる。
4 郷土資料の棚を確認する。
5 4の資料の出典を確認する。
6 《埼玉関係データベース》(埼玉県立図書館)を〈房川〉〈舟橋 & 日光〉で検索する。
ウェブサイト・データベースの最終アクセス日は2021年5月8日。
- 事前調査事項
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以下の資料は確認済み。
『江戸の街道(みち) 絵図でたどる宿場と関所 にっぽん歴史街道 特別展』(埼玉県立歴史と民俗の博物館編 埼玉県立歴史と民俗の博物館 2014)
『明治以前日本土木史』(土木学会編 岩波書店 1973)
- NDC
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- 交通史.事情 (682 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『日光街道繁昌記』(本間清利著 補訂版 埼玉新聞社 1980)
- 『埼玉県立博物館紀要16』(埼玉県立博物館 1990.3)
- 『久喜市栗橋町史 第1巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2015)
- 『日本交通史論叢』(大島延次郎著 法政大学出版局 1969)
- 『鷲宮町史 通史 中巻』(鷲宮町編 鷲宮町 1986)
- キーワード
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- 久喜市--歴史
- 船橋
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000308878