レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 京都市図書館 (2210023) | 管理番号 (Control number) | 右中-郷土-41 | ||||||||||||||||||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2011/08/10 | 登録日時 (Registration date) | 2011年08月23日 02時00分 | 更新日時 (Last update) | 2011年09月05日 13時04分 | ||||||||||||||||||||
質問 (Question) | 小野篁(おののたかむら)が冥界からの出口として使った井戸について知りたい。 | ||||||||||||||||||||||||
回答 (Answer) | 平安時代前期の政治家・学者・歌人であった小野篁は昼間朝廷に仕え,夜間は東山区の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ,ろくどうちんこうじ)の井戸を入口として冥界へ行き,閻魔大王の臣として亡者の裁判を担当し,朝になると右京区上嵯峨の福正(生)寺(ふくしょうじ)にあった井戸を出口としてこの世へ戻るのを日課としていたという伝説があります。 六道珍皇寺は平安時代の葬送地であった鳥辺野(とりべの)の入り口に位置しており,六道珍皇寺の周辺は中世以降,あの世とこの世の分岐点という意味を込めて「六道の辻」と呼ばれました。出口とされた福正寺は鳥辺野とともに葬送地として知られた化野(あだしの)の地にあり,死の世界から現世に戻るところであったので「生(しょう)の六道」とも呼ばれていました。 福正寺は明治時代に廃寺となったため,明治13年(1880)に清凉寺(嵯峨釈迦堂)境内にある嵯峨薬師寺に合併されました。 嵯峨薬師寺には生六道地蔵尊と小野篁像が安置されています。生六道地蔵尊は,地獄で猛火を受けて苦しんでいた亡者を救うために,身代わりとなって焼かれている地蔵菩薩の姿に心を打たれた篁が,自ら彫刻したものといわれています。 昭和35年には冥界からの出口と伝えられる七つの井戸が福正寺跡とみられる薮の中から発見されましたが,その後埋め立てられたため現在井戸は残っていません。 | ||||||||||||||||||||||||
回答プロセス (Answering process) | ●“清凉寺(嵯峨釈迦堂)”,“福正(生)寺”,“六道珍皇寺”に関する資料を調査する。【資料1】~【資料5】 ●“小野篁”,“京都の歴史”,“京都の伝説”をキーワードに調査する。【資料6】~【資料17】 | ||||||||||||||||||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||||||||||||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||||||||||||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||||||||||||||||||
備考 (Notes) | |||||||||||||||||||||||||
調査種別 (Type of search) | 文献紹介 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||||||||||||||||||
登録番号 (Registration number) | 1000090296 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |