レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年04月22日
- 登録日時
- 2012/08/12 11:05
- 更新日時
- 2012/08/12 11:05
- 管理番号
- 20120522-1
- 質問
-
解決
金沢藩は江戸時代、藩の専売制による、有力な和紙生産地(今の富山県の五箇山などでしょうか)だったそうです。当時は米の年貢米が藩財政の基本だったと思いますが、和紙は米の年貢代金などと比べて、どれくらいの寄与をしたものだったのでしょうか。
- 回答
-
以下の資料を見ると、加賀藩で和紙の専売制は行なわれていないようなので、藩財政における寄与という数値も出てこないようです。
(1)『富山県史 通史編4近世下』富山県編集 富山県 1983(214.2/66/1-4)p278によると、
「天保10年(1839)7月、藩は御用紙および金沢城下で必要とする用紙を確保するため、「五ヶ山御仕入紙方仕法」を作り、砺波・射水郡でできた楮を買い上げ、城端・福光・大西に集め、指定の紙漉屋に渡し、生産した紙を福光町と野田村に作る取集所に集めようとした。・・・これは、城端・井波町の五箇山相手の商売である判方商の存在を否定するものであったので、両町商人は反対を続け、翌11年に城端町判方は野田取集所から紙を受け取る権利を得た。・・・」とあり、
①紙の生産のための楮の統制は行われた。
②紙の販売については統制しようとしたがうまくいかなかった。
③紙の販売の統制は、藩でおよび城下必要とする用紙の確保のためであり、紙の専売によって藩の利益を出そうとしているものではなかった。
ということがわかります。
(2)また、加賀藩の財政を分析したものに土屋喬雄「旧金沢藩の財政」(『封建社会崩壊過程の研究』土屋喬雄著 象山社 1981.10(K342/1001))があります。
たとえばこの中の(p86-87)「元禄14年御収納米図り」では元禄14年の収入29万2771石余りのうち、1万7007石余が「塩手米」と塩の専売制による収入があったことがわかりますが、紙についてこのような収入があったという記載はありません。
(3)田中嘉男「幕末期、在郷商人の展開と商品流通」(『日本海地域史研究 第5輯』文献出版 1984.7(K209.5/52/5))p30「藩末、郡別主要商品流通(慶応2年)」に郡別の領内向・他国向の生産高の一覧がありますが、砺波郡では、「絹紬」「布」「苧かせ」の3品だけで、紙については記載されておらず、藩領内の経済を左右するほどの商品とも認識されていないようです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 北陸地方 (214 9版)
- パルプ.製紙工業 (585 9版)
- 参考資料
-
- 『富山県史 通史編4近世下』富山県編集 富山県 1983(214.2/66/1-4)
- 『封建社会崩壊過程の研究』土屋喬雄著 象山社 1981.10(K342/1001))
- (『日本海地域史研究 第5輯』文献出版 1984.7(K209.5/52/5)
- キーワード
-
- 加賀藩
- 和紙
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000109860