レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2005年12月14日
- 登録日時
- 2005/12/14 10:44
- 更新日時
- 2005/12/14 10:44
- 管理番号
- 恵庭0001
- 質問
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解決
昭和三年ごろ(記憶があるのはそのころ)から旧樺太に住んでいた。その頃豊原市の東側2~30キロのところに白系ロシア人と呼ばれる人たちが集落で暮らしていた。ロスケ村と呼んでいた(50~100人ぐらい)なぜ日本領なのに彼らは住めたのか?また、当時引き上げの際「彼らは収容所に入れられるのでは」とのうわさが流れたが、果たして無事だったのかを知りたい。
- 回答
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【北海道立図書館様回答を要約しました】
1.なぜ、日本領なのに彼らは住めたのか?
白系ロシア人は「移民」の扱いになると推定される(「ア」参照)。樺太は、1875年の樺太・千島交換条約の際に「すでに居住してきた日本人とロシア人は国籍を維持したまま居住し続けることが認められて」おり(「イ」参照)、もともと共生の環境が整っていたため、白系ロシア人も、働くことを含め、普通に生活できたらしい(「ウ」「エ」参照)。政治的活動をしていた白系ロシア人もいたが、主にフランスやドイツがセンターになっていて(「オ」参照)、樺太で組織的な活動があったという記述は見当たらなかった。ただ、横綱・大鵬の父親のように、スパイ容疑をかけられることはあった(「カ」参照)。
2.終戦後、彼らは無事だったのか?
「カ」の中に、“ソ連側のスパイ事件などもあって、終戦の二年前、白系ロシア人に「集団移住」の命令が下された”とあり、昭和18年の内務省令第61号及び内務省告示第580号かと思われる(「キ」参照)。指定地域に樺太の地名はないが、“甲域以外ノ要塞地帯、軍港要港ノ境域及陸軍輸送港域”に該当したと推定される。ただ、この命令を受けて、実際にどのような移住方法がとられたのかかが確認できる資料は見つからなかった。また、戦後、ソ連側に収容されたという記述も見つからなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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「サハリンの歴史」M・S・ヴィソーコフ 北海道撮影社
「ロシア極東 1」北海道新聞社
- NDC
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- アジア (292 8版)
- 参考資料
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ア 万有百科事典 11 政治・社会 小学館 1982 *「移民」の項
イ ロシア史 2 山川出版社 1994 (世界歴史大系)
ウ 樺太時報 42号 樺太庁 1940.10 *「残留露人の生活 ― (大泊支庁長浜村)荒栗のロシア人達」
エ 樺太 11巻9号 樺太社 1939.8 *「露西亜人とコスモポリタン」
オ 世界大百科事典 22 平凡社 1997 *「白系ロシア人の頃」
カ 巨人、大鵬、卵焼き 大鵬幸喜著 日本経済新聞社 2001
キ 官報 第5015号(1943.9.29)
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ア 万有百科事典 11 政治・社会 小学館 1982 *「移民」の項
- キーワード
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- 北海道
- 樺太
- サハリン
- ソビエト連邦
- ロシア人
- 第二次世界大戦
- 移民
- 照会先
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- 北海道立図書館
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000026747