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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000261840
提供館
(Library)
島根県立図書館 (2110035)管理番号
(Control number)
島根郷2019-04-006
事例作成日
(Creation date)
2019年04月30日登録日時
(Registration date)
2019年09月27日 16時37分更新日時
(Last update)
2020年01月07日 13時30分
質問
(Question)
実業家・政治家の藤原銀次郎が松江日報に入社したときのことが知りたい。
回答
(Answer)
当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。

資料1:p21-26「松江日報の主筆となる」。明治22年12月に慶応義塾を卒業する(21歳)。当時は明治憲法が発布され、第一回帝国議会の招集が間近であり、福沢諭吉らが創始した時事新報は盛運であった。藤原は時事新報の幹部であった伊藤欽亮を友人と訪ねた時、伊藤から新聞記者になることを勧められた。伊藤から松江日報の主筆になってほしいと言われるも、新聞記者の経験がないことでためらっていたが、しばらくは時事新報の先輩記者(柳荘太郎)を指導役として同行させることで承諾した。明治23年2月に藤原は松江に赴任した。松江日報は当時たくさんあった政党新聞の一つで、政府党の新聞であった。発行部数はわずか2~3000という小新聞であったため、藤原は主筆・記者・小使の三役を兼ねた。藤原入社後の数年は新聞社の経営はよかったが、だんだん苦しくなってきた。借金がかさみ、株主の集まりで松江日報の解散話が持ち上がったが、藤原は株主たちに新聞の社会的重要性を説き、再考を要望した。それを聞いた株主たちは解散は回避したが、従来の社長を経営不振の責任をとって辞任させ、藤原を社長とした。わずか24歳で社長となった藤原は資金調達に奔走することとなったが、なかなか苦境を脱することはできなかった。
あるとき、同郷の先輩・鈴木梅四郎から手紙が届いた。それは三井銀行でともに働かないかという誘いであった。明治28年、藤原は三井銀行に入店することとなり、松江を離れることとなった。

資料2:紙の博物館『百万塔』38号抜刷(p17-26)。p21-23「青年主筆の誕生」。藤原銀次郎に同行した先輩記者・柳荘太郎の回顧では、松江日報社主・岡崎運兵衛から波多野承五郎(時事新報記者。福沢諭吉の弟子)に主筆人選の依頼をしたところ、時事新報の伊藤欽亮に委託された、とする。柳荘太郎の息子によると、初めは柳荘太郎が福沢諭吉から松江へ行くように言われたが、老母を抱えているなどの事情により辞退して、かわりに藤原銀次郎を推薦した。柳は一緒に松江まで行って新聞編集などのことを教え、何から何までお膳立てしてから帰京した、という。このような経緯であったことから、福沢諭吉が創刊した時事新報の明治23年2月9日号2面雑報欄に松江日報が2月11日の紀元節に創刊する旨の記事が載っている。また同月23日号には、松江日報の創刊号発刊日が2月15日であったこと、大阪に注文していた印刷機の到着が大幅に遅れたこと、主筆(藤原銀次郎)が病気であったこと、山陰道では松江日報が初の日刊新聞であることなどが書かれているという。

資料3:p1-8「新聞興亡の跡」。明治23年2月15日松江市殿町121番屋敷(のちの401番地)に『松江日報』が誕生し、ほどなく殿町383番地に移転した(現在の山陰新報社所在地)。この創立はさき(明治12年)に『松江新聞』を創刊した岡崎運兵衛、佐々木善右衛門らが再度の計画によるもので、藤原銀次郎を主筆として発行した。岡崎は山陰新聞(明治15年創刊)創立時の有力な主唱者であったが、山陰新聞がもともと自由党(のちの政友会)寄りで創刊されたが、時勢とともに政治的所見を異にするに至った結果とみられる。岡崎は明治23年7月に衆議院議員当選と同時に政府擁護派の大成会に所属し、いわゆる民党である立憲自由党とは対立の立場にあった。
主筆藤原銀次郎は、松江日報赴任当時はわずかに22歳、慶応義塾を卒業するとすぐに赴任したので、新聞の経験はなく、時事新報記者柳荘太郎が指南役として付き添った。藤原は絣の筒袖の袷、羽織という書生姿であったが、中々の才筆家で、「山陰道の前途」と題する社説を掲げ、志賀重昴に認められ日本新聞紙上で賞揚されたと伝えられる。またその後は「国会論」という長論文を草し中央論壇の注目をひいたといわれている。経営については第三銀行松江支店長の増山正直が当たっていたが、増山転任後は藤原が経営にも苦心した。すでに相当な地盤を固めていた山陰新聞に対抗することはなかなか困難で、ついに藤原も辞任して東京に引き上げ、その後は西山猪之助が経営を、今岡義一郎(神門郡神西村出身)が主筆を担った。しかし、松江日報の衰運はいかんともしがたく、遂に政友系の手に帰し、明治34年10月1日「島根新報」と改題して全く新たな発行に移ることとなった(以下略)。
回答プロセス
(Answering process)
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本  (281 8版)
日本  (071 8版)
参考資料
(Reference materials)
【資料1】水谷啓二 著 , 水谷, 啓二, 1912-1970. 藤原銀次郎伝. 東洋書館, 1954. (日本財界人物伝全集 ; 第4巻)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000927511-00  (当館請求記号 092.8D/1469 ※貸出禁止資料)
【資料2】高橋関晴 著 , 高橋関晴. 松江日報創刊をめぐって. 紙の博物館, 1974.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I069457056-00  (当館請求記号 090.7/25 ※貸出禁止資料)
白名徹夫 著 , 白名, 徹夫, 1886-. 島根県新聞史. 山陰新報社, 1955.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000957391-00  (当館請求記号 090.7/2 ※貸出禁止資料)
キーワード
(Keywords)
松江日報
新聞
藤原銀次郎
山陰新報
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000261840解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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