レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年12月15日
- 登録日時
- 2011/12/15 10:25
- 更新日時
- 2016/08/20 11:51
- 管理番号
- 町田-064
- 質問
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解決
法隆寺にプールのような大きな風呂があったのか?
そうであれば、その出典を知りたい。
- 回答
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「温室長壹口七丈八尺廣三丈三尺」(メートル換算で縦22m横10mほど)の湯屋があったことがわかるが、浴槽自体の大きさまでは特定できず。
以下の資料を提供する。
- 回答プロセス
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●『三宝絵詞』下 源為憲・撰/江口孝夫・校注 現代思潮社 1982年
p31「温室」の最後に解説あり。「温室は毎月二回」行われた。日本の特定の僧が発明し、特定の寺院で行うものではない。ゆえに「他の書にも書きとめられていない」という。
p.24上段の注記より、「温室」(うんしつ)とは、浴室、入浴させることとある。「浴むす」は湯あみさせる。湯や水を注ぎかけるとも。
本文はじめにも「おほきに湯を沸かしてあまねく僧に浴むす」。また「人の志にて日をも定めずして沸かすこと多かり」ともある。
●『入浴・銭湯の歴史』中野栄三 雄山閣 1994年
p20「温浴思想と仏教」 仏教と入浴との関係が解説されている。
●『法隆寺の謎』高田良信 小学館 1998年
P44「大湯屋―二つの大釜を備える大浴場」に大湯屋の記述はあるが、「大きなプール」を連想させるものはない。
●『法隆寺の謎を解く』高田良信 小学館 1990年
p139に「湯屋尻」という地名は「大湯屋」からの湯がそこに流れたところからこの地名になったのではとのこと。
●『風呂と日本人』
P73に法隆寺の「温室」についての記述あり。『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』を紹介し、建物が「温室一口 長七丈八尺、広三丈三尺」と大規模であることが紹介されている。ただし構造・浴法はなし。
また、p74「発汗浴が連想される。しかし、これは『温室経』から言葉だけ借りた可能性がある」。現在残る「大湯屋」は「のちの時代に再建されたものであり」、「温湯浴だったようだ」。また「奈良時代の大寺院に浴室が設けられていたことは、はっきりしている。しかし、その構造や浴法を明らかにすることは、困難だ」としている。
●『「入浴」はだかの風俗史』花咲一男・文/町田忍・写真 講談社 1993年
p4~には、寺僧は生活規律の一つとして「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」を守っていた。『温室経』(おんじつきょう)にも、その効用が書いてある。(入浴は七病を除き七福を得る)「古い記録では奈良法隆寺の温室(浴堂)があるが、詳しいことは明らかではない」としている。
このなかで奈良法華寺での光明皇后による施浴を伝える伝説や東大寺の大湯屋(おおゆや)についてもふれているが、この年代の浴室は石風呂や蒸し風呂造りであったろうとしている。
●『古事類苑』居処部 吉川弘文館 1979年 p669「法隆寺資材帳」あり
●『続群書類従』27下 塙保己一 続群書類従完成会 1984年
p174「法隆寺縁起資材帳」のなかに「温室壹口 長七丈八尺 廣三丈三尺」とある。また、p162に「温室分銅壹口 口径四尺五寸 深三尺九寸」、p163に「温室分鐵壹口 口径二尺 深二寸七分」とある。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 風俗習慣.民俗学.民族学 (380 9版)
- 参考資料
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- 『三宝絵詞』下 源為憲・撰/江口孝夫・校注 現代思潮社 1982年
- 『古事類苑』居処部
- 『入浴・銭湯の歴史』中野栄三 雄山閣 1994年
- 『法隆寺の謎』高田良信 小学館 1998年
- 『「入浴」はだかの風俗史』花咲一男・文/町田忍・写真 講談社 1993年
- 『続群書類従』27下
- キーワード
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- 法隆寺
- 大湯屋
- 温室
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000097759