レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年07月12日
- 登録日時
- 2019/07/11 16:00
- 更新日時
- 2019/10/03 10:14
- 管理番号
- 県立長野-19-018
- 質問
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未解決
須坂藩主堀家居館の稲荷神社の創建年月日を知りたい。『須坂市文化財 仏像・民間信仰』に記載があるのではないか。
- 回答
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『須坂市文化財 仏像・民間信仰』を確認したところ、稲荷信仰の9稲荷社 常盤町(p.170)に堀家の稲荷社の解説がある。しかし、この解説中に伏見稲荷神社からの分霊した年代にかかわる記述は確認できなかった。また、稲荷社を招聘した人物の名も記載はない。この部分は以下のとおり。
須坂藩主堀家居館の鎮守である。元和元年五月(一六一五)大坂夏の陣が終ると初代直重は須坂十三ヶ村と矢作を合せて一万二千五十石を領することとなった。「上高井歴史」では、この八月入郡して縄張りをして矢作へ皈ったというが、直重は三年六月に卒しているので、実際の居館の基を据へたのは二代直升である。元和三年八月一万二千余石の中、矢作の二千石を弟たちに分け与へて、自分は須坂十三ヶ村一万五十三石余を持って入郡した。未詳の所が多いが、元和の初めには入郡していると考へられる。そして須坂市の基が開かれた。「須坂の町は誰が建てた高井のの大夫さんが建てた殿町だ」という俗謡が出来た、のはこの時のことで、福島正則は元和五年六月に川中島へたくされたのであるから須坂の町造りをする俗謡にうたわれる理由がない。
また、『信濃史料』全28巻 補遺上・下 信濃史料刊行会編・刊【N208/28a】を、索引で「堀直重」と「堀直升」を引き、関係部分を調査したが、常盤町の稲荷社にかかわる文書は確認できなかった。本文は長野県立歴史館のサイトでデジタルアーカイブとして公開【最終確認2019.9.28】している。
- 回答プロセス
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1 依頼の資料。『須坂市文化財 仏像・民間信仰』を確認する。記載はない。
2 基本的なものはほとんど調査済み資料となっていたので、未調査のもので人名から検索できる『信濃史料』を見ていく。初代の「堀直重」2代「堀直升」を見る。稲荷社についての記載があるものは確認できなかった。
3 堀家に関する資料を探す。長野県郷土分類N288の書架を探す。関係資料にも稲荷社についての記述は確認できなかった。
<調査済資料>
・『須坂藩主堀家の歴史』広瀬紀子著 長野郷土研究会 1978【N288/84】
・『須坂藩主堀家概説』須坂市教育委員会・須坂市立博物館 1972【N288/86】
・『須坂藩主堀家史料集-勝善寺文書・丸山文書-』須坂市立博物館 1978【N288/80】
・広瀬紀子「須坂藩 堀家資料(一), (二)」『長野』47号(電子複写)【N288/85】
・『神道大系 神社編 稲荷』神道大系編纂会編・刊 1991 【170/59/9】
- 事前調査事項
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『長野県史 民俗編第4巻2 北信地方』 長野県編 長野県史刊行会 1985【N209/11-3/4-2】, 『土俗より見た信濃小社考』小口伊乙著 岡谷書店 1980 【N170/11】, 『長野県町村誌 第1巻北信編』長野県編 明治文献 1973【N290/33/1】, 『堀家の歴史』堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967 【N288/52】, 『須坂・中野・飯山の社寺』 湯本軍一監修 2007【N171/48】,『長野県神社百年誌』長野県神社庁編・刊 1964 【N170/7】, 『須坂市史』須坂市史編纂委員会編 須坂市 【N214/50】,『稲荷信仰』山折哲雄編 戎光祥出版 1999【387/シン/3】『民衆宗教史叢書 第3巻 稲荷信仰』直江広治編 雄山閣出版 1983【162.1/ミン/3】
- NDC
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- 中部地方 (215 8版)
- 神道 (170 8版)
- 参考資料
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須坂市教育委員会 編 , 須坂市教育委員会. 須坂市文化財 : 仏像・民間信仰. 須坂市教育委員会, 1959.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001469035-00 (【N386/13】p.170)
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須坂市教育委員会 編 , 須坂市教育委員会. 須坂市文化財 : 仏像・民間信仰. 須坂市教育委員会, 1959.
- キーワード
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- 堀家
- 須坂藩
- 稲荷社
- 堀直重
- 堀直升
- 稲荷信仰
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000258583