レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 尼崎市立歴史博物館 地域研究史料室 “あまがさきアーカイブズ” (5000006) | 管理番号 (Control number) | 177 | ||||||
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事例作成日 (Creation date) | 2020/02/21 | 登録日時 (Registration date) | 2020年02月21日 14時13分 | 更新日時 (Last update) | 2020年03月08日 13時05分 | ||||
質問 (Question) | 近世の尼崎城下にあった渡船場について調べたい。 | ||||||||
回答 (Answer) | 近世尼崎城下の唯一の渡船場(船渡し場)は、城下の東端にあたる辰巳町(たつみちょう)にありました。現在で言うと、尼崎市東本町(ひがしほんまち)1丁目の東側、左門殿川(さもんどがわ)に架かる辰巳橋近辺にあたります。 この渡船場は、尼崎と対岸の佃島(つくだじま、現大阪市西淀川区佃)の間を結ぶ船の渡し場で、辰巳の渡し場と呼ばれ、佃島から街道筋が大坂へと通じていました。佃島は尼崎藩領外であり、尼崎藩領から領外へと追放される者は、辰巳の渡し場で追放を言い渡されたと伝えられます。 尼崎城下に徒歩で出入りできる場所は、この辰巳の渡し場のほかに、城下の北東、大物町(だいもつちょう)北側の北口御門と、城下の西端に位置する竹谷(たけや)御門がありました。ふたつの御門は、いずれも大坂から神崎(現尼崎市神崎町)を経て尼崎城下を通過し、西宮から兵庫を経由して中国地方へと向かう中国街道筋の御門でした。 辰巳の渡し場の西側、同じ辰巳町の長遠寺浜(じょうおんじはま)や、北側の大物町には大坂への船乗り場がありました。辰巳町には、左門殿川・神崎川・淀川から伏見や大坂に至る過書船の船番所があったこともわかっています。 辰巳の渡しがいつの時代に設けられたのか、正確な年代は現在のところ判明していませんが、慶長10年(1605)の「摂津国絵図」(西宮市立郷土資料館所蔵)には尼崎から佃を経て大坂に至る街道が描かれているので、元和4年(1618)に始まる近世尼崎城築城と城下町建設の以前から、すでに佃との間の渡し船があったものと考えられます。近世後期の作家・浮世絵師である浜松歌国が著した『摂陽奇観』其一は、「復讐辰巳渡伝」という書物を引いて慶長8年にこの渡し場で仇討ちがあったいう逸話を伝えており、辰巳八幡神社の境内には昭和初年に建てられ「辰巳仇討址」と刻んだ石碑が遺っています。 明治18年(1885)測量の「仮製地形図」には、尼崎と佃の間に架かる橋が確認できるので、遅くともそれまでに渡し場は廃止されたとみられます。 | ||||||||
回答プロセス (Answering process) | 1 尼崎城下の渡し場、船乗り場等を記す城下絵図等を紹介する文献 ◆『図説尼崎の歴史』上巻/Web版図説尼崎の歴史 近世編第一節4「城と城下町」のうち「港と町屋」(執筆者:中村光夫) http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/03kinsei/kinsei1-4-2.html 2 慶長年間の辰巳の仇討ちについて記す文献 ◆『摂陽奇観』其一 浜松歌国 「復讐辰巳渡伝」という書物を引いて、慶長8年(1603)に辰巳の渡し場で仇討ちがあったいう逸話を伝える 3 辰巳の渡し場廃止後の状況がわかる地図 ◆大日本帝国参謀本部陸軍部測量局明治18年測量 二万分の一仮製地形図「尼崎」 | ||||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | |||||||||
NDC |
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参考資料 (Reference materials) |
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キーワード (Keywords) |
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照会先 (Institution or person inquired for advice) | |||||||||
寄与者 (Contributor) | |||||||||
備考 (Notes) | |||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | 社会人 | ||||
登録番号 (Registration number) | 1000274261 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |