レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年11月17日
- 登録日時
- 2012/11/17 15:45
- 更新日時
- 2018/10/21 11:39
- 管理番号
- 022
- 質問
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解決
かつて、尼崎市内の今福付近から左門殿川を渡る「宮の渡し」という船渡しがあったと、地元に伝わっている。国道2号が開通し左門橋(阪神バスのバス停名称は左門殿橋)が架かるまで、渡しが続いていたと思われる。この渡しの歴史について調べたい。
(当初、尼崎市立中央図書館に来館・質問され、図書館から史料館に問い合わせがあった。その後ご本人が史料館に来館され、レファレンスを行なった)
- 回答
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現尼崎市域の東側を流れる神崎川・左門殿川を渡る近世~近代初頭の渡し場としては、神崎の渡しと、尼崎城下の辰巳の渡しがあったことが知られています。
尼崎地域に残る近世の文書や記録のうえで、この2か所の渡し以外に猪名川・神崎川水系の渡し場があったという記録は現在のところ見つかっていませんが、長州藩毛利家が参勤交代で通る街道筋を絵図に記録した「行程記」(山口県文書館所蔵、『尼崎市史』第2巻折り込み図に尼崎周辺部分掲載)には、尼崎城下の北側から左門殿川を東に渡る船渡しが描かれています。また、明治期の地形図にも今福から対岸の佃に渡る道筋が描かれていることから、近世から近代初頭にかけて、この位置に船渡しがあったと考えられます。ただし、「宮の渡し」という名称を記したものはなく、大正期の地形図には神戸酢酸工業今福工場(塩野義製薬杭瀬工場の前身)から対岸の佃に渡る渡しの名称が「横渡」と書かれています。
加えて、大正2年(1913)11月2日に、今福にあった大阪合同紡績神崎工場の女性労働者18人が、通勤途上左門殿川の渡し船転覆により水死した事件が、『尼崎市史』第13巻所収年表に記録されています(典拠は当時の新聞である「神戸又新(ゆうしん)日報」記事)。このことから、国道2号建設とともに左門橋が架橋される昭和元年(1926)の直前頃まで、船渡しが続いていたのではないかと考えられます。なお、この事故の慰霊碑が、阪神千舟駅南西の佃墓地に建てられています。
こういった断片的な記事以外に、この渡しについて記録した史料は現在のところ見つかっておらず、「宮の渡し」という名称を記録したものもありません。今福から見て左門殿川の対岸にあたる佃には、神功皇后ゆかりの伝承で知られる田蓑(たみの)神社があり、佃側の渡し場は田蓑神社に近い位置であるため、「宮の渡し」という呼称は田蓑神社に由来する可能性も考えられます。
- 回答プロセス
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◆『尼崎市史』第2巻折り込み図
「行程記」(山口県文書館所蔵) 尼崎城下の北側から左門殿川を渡る「船渡し」が描かれている。
◆明治18年・明治42年・大正10年地形図
今福から対岸の佃に向けて、渡る道筋が描かれている。
大正10年の地形図には、神戸酢酸工業今福工場(塩野義製薬杭瀬工場の前身)から対岸の佃に渡る渡しの名称が「横渡」と書かれている。
◆『尼崎市史』第13巻所収年表
大正2年(1913)11月2日記事として、大阪合同紡績神崎工場の女性労働者18人が、通勤途上左門殿川の渡し船転覆により水死した事件が、神戸又新日報を典拠として記載されている。
◆近世文書等の記載の有無
館所蔵古文書類の目録を検索したが、関連する内容の文書を見出すことはできなかった。
なお、今福村の近世村明細帳は現在知り得る限りでは残っておらず、各村の事情を記録した幕府巡見使通行に備える記録帳(『尼崎市史』第6巻所収、天保9年「巡見使通行御用の留」等)には、この渡しについての記述はない。
- 事前調査事項
- NDC
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- 近畿地方 (216 9版)
- 交通史.事情 (682 9版)
- 参考資料
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- 『尼崎市史』第2巻 昭和43年発行 (当館請求記号 219/A/ア-2)
- 『尼崎市史』第13巻 昭和63年発行 (当館請求記号 219/A/ア-13)
- キーワード
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- 尼崎市
- 今福
- 佃
- 渡し
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000114210