レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年07月12日
- 登録日時
- 2017/03/28 14:58
- 更新日時
- 2017/04/11 15:29
- 管理番号
- 千県中新聞-2016-2
- 質問
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解決
習志野市や佐倉市のロシア捕虜収容所について調べている。ロシア人捕虜が列車で送られてくる様子が書かれた千葉県の新聞記事や、佐倉でロシア人が 街中を歩いていたという記事を探している。
- 回答
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(1)新聞記事について
習志野市ホームページにおいて、「日露戦争と習志野の捕虜」の見出しでロシア軍捕虜(習志野・佐倉)の新聞記事について、以下の内容が日付とともに掲載されているのを確認しました。
ア「捕虜収容所新設] → 千葉毎日新聞 1905(明治38)年3月20日付
・赤羽停車場にて、奉天の捕虜習志野護送の図があり、捕虜が列車に送られて乗っている図や、習志野原の収容所に着いたばかりの捕虜は建物がまだできていなかったので、テントに入っている様子が掲載されています。
イ「佐倉収容所について」→千葉毎日新聞 1905(明治38)年4月13日付
・佐倉から300名の下士卒が習志野に転送されたことについて書かれています。ここでは、ロシア人捕虜が街中を歩いている写真や図は、見つけることができませんでした。2つの日付(ア・イ)の新聞記事についてマイクロフィルムを(通覧)して確認しました。
ア「捕虜収容所新設」について
『千葉毎日新聞』1905(明治38)年3月20日付の新聞がマイクロフィルムに収録されていない(号数にて確認)ようで、見つけることができず、習志野市ホームページの記述の引用元が不明です。念のため前後の日付で関係する内容の記事を調査したところ3件の記事を確認しました。
『千葉毎日新聞』1905(明治38)年3月19日付 第582号
「習志野収容捕虜通行道筋」
→『千葉毎日新聞』1905(明治38)年3月21日付 第583号 p2 最下段
「習志野収容の捕虜」
→『千葉毎日新聞』1905(明治38)年3月23日付 第584号 p2 2段目
「習志野の捕虜」
→『千葉毎日新聞』1905(明治38)年3月29日付 第589号 p3 3.4段目
※念のため読売新聞3月20日を「ヨミダス歴史館」で調査しました。
「習志野に捕虜収容」(『読売新聞』1905(明治38)年3月20日付 第9981号 p2
※以下の資料にも関係する内容が掲載されていることを確認しました。
『明治ニュース事典 7巻 明治36年/40年』(毎日コミュニケーションズ 1986)p553~p563
『習志野市史 史料3』「習志野のロシア捕虜収容所」
p4 「捕虜収容所新設」
P10「四 捕虜と町民」
P20「六 日本人の捕虜観」
イ『佐倉収容所の捕虜』について
マイクロフィルムで「佐倉収容所の捕虜」(『千葉毎日新聞』 1905年4月13日付 第601) p3 2~3段目の記事を確認しましたが、ロシア人捕虜が街中を歩いている写真や図は見当たりませんでした。
- 回答プロセス
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キーワード:「ロシア軍捕虜 習志野」でインターネット検索により検索しました。画像にて検索したところ、調査内容に近いロシア軍捕虜とみられる画像「千葉縣下習志野捕虜収容所落成前天幕内に於ける眞景」)の掲載を確認しました。画像から習志野市ホームページ「日露戦争と習志野の捕虜」を見つけ、掲載されていた。新聞記事の日付をもとにマイクロフィルムで調べました。また、『習志野市史』で調べ、記載のあった新聞や内容をもとに千葉毎日新聞のマイクロフィルムを通覧して確認しました。
- 事前調査事項
- NDC
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- 国際法 (329 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
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- 『明治ニュース事典 7巻 明治36年/40年』(毎日コミュニケーションズ 1986 9102890743)
- 『習志野市史 史料3 習志野のロシア捕虜収容所』(習志野市史編さん準備委員 1979 92-0004324-2)
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習志野市ホームページ
(https://www.city.narashino.lg.jp/konnamachi/bunkahistory/rekishi/nichiro/2.html - 『千葉毎日新聞 マイクロフィルム1905年』
- キーワード
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- 日露戦争
- 捕虜
- 千葉県
- 佐倉市
- 習志野市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000212919