レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月17日
- 登録日時
- 2012/02/17 16:00
- 更新日時
- 2012/08/30 13:43
- 管理番号
- 97-C-3
- 質問
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解決
日露戦争のころ、松山にあったロシア兵俘虜の収容所について知りたい。
- 回答
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(1)【資料1】P243~249、「松山捕虜収容所」の項に、次のように記載されている。
日露戦争中、松山にロシア兵捕虜収容所(正式には「俘虜収容所」)が置かれた。日露戦争が始まり、ロシア兵捕虜の収容は全国約七万人、うち松山収容所は延べ六,〇一九人で最も多く収容された、三十八年四月ころには約四,〇〇〇人がいた。最初収容所は松山衛戍病院・松山公会堂・松山勧善社・大林寺があてられたが、収容人員が増えるにつれて雲祥寺・妙清寺・法龍寺を借り入れ、城北練兵場に付属病室(通称バラック)を建設、ついで正宗寺・一番町収容所・妙円寺・出淵町収容所が次々と開設された。さらに旅順開城で捕虜の増加が想定されたので、長建寺・弘願寺・不退寺・法華寺・来迎寺・浄福寺・龍穏寺・天徳寺など山越の寺々と松山市伝染病院をこれにあてることにした。
(略)捕虜将校には道後温泉での入浴が特別に許され、霊の湯を借り切り、入浴後は道後公園を散策したりした。三八年四月からは「外出心得」によって捕虜たちの自由外出が認められ、高級将校や妻帯者には借家住いが許された。
(略)学校はじめ市民もあたたかくロシア人をもてなした。松山捕虜収容所のロシア人は、三八年一二月に順次帰国の途についた。この地で死亡したワシリィ・ボイスマン大佐はじめ九八人の人々は、御幸寺山山麓の通称「ロシア人墓地」に葬られた。
(略)明治三九年二月、松山捕虜収容所はその使命を終えて閉鎖された。
(2)松山でのロシア人の捕虜の生活や行動を詳細に記したものとして、【資料2】【資料3】【資料4】がある。
他に【資料5】には「松山俘虜収容所」(P860~879)の項が、【資料6】には「松山俘虜収容所」(P501)、「ロシア人墓地」(P663)の項がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 国際法 (329 9版)
- 四国地方 (218 9版)
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】 『松山市史 第三巻』 松山市史編集委員会/編集 松山市役所 1995年 <請求記号:K231 /49 /3>
- 【資料2】 『松山収容所 捕虜と日本人』 才神 時雄/著 中央公論社 1977年 <請求記号:K329 /1>
- 【資料3】 『松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本』 F・クプチンスキー/〔著〕 中央公論社 1988年 <請求記号:K986 /1 /フク >
- 【資料4】 『日露戦争下の日本 ロシア軍人捕虜の妻の日記』 ソフィア・フォン・タイル/著 新人物往来社 1991年 <請求記号:K986 /2>
- 【資料5】 『愛媛県史 近代 上』 愛媛県史編さん委員会/編集 愛媛県 1986年 <請求記号:K200 /31 >
- 【資料6】 『愛媛県百科大事典 下 す~わ)』 愛媛新聞社愛媛県百科大事典編集委員室/編集 愛媛新聞社 1985年 <請求記号:R /K290 /63 /2 >
- キーワード
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- 日露戦争 にちろせんそう
- 松山捕虜収容所 まつやまほりょしゅうようしょ
- ロシア人墓地(松山市) ろしあじんぼち(まつやまし)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 事例出典『郷土資料に関する調査・相談事例集』 愛媛県図書館協会・愛媛県立図書館/編集 愛媛県立図書館 1997年
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000101914