レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年10月25日
- 登録日時
- 2019/11/03 16:04
- 更新日時
- 2019/12/11 16:38
- 管理番号
- 県立長野-19-053
- 質問
-
解決
真田昌幸の三男信勝(のぶかつ)、四男昌親(まさちか)について、史料文献はあるか。
- 回答
-
以下の資料を紹介した。
・『真田家文書 中巻』米山一政 長野市 1982 【N208/53/2】
「真田家系譜」p.21-97のうちp.34に
信勝 左馬助
分知被召出、家断絶等之譯舊記焼失、相知不申候得共、大御番相勤候由御座候、
とある。昌親については記載なし。系図末に「以上九人母者舊記焼失、相知不申候」と記されている。
・『真田町誌 歴史編上』真田町誌編纂委員会 真田町誌刊行会 1998【N221/156/2】
p.508の系図に
信勝 左馬助
昌親 内匠
蔵人
とある。
・『信濃史料 第20巻』信濃史料刊行会編・刊 1970 【N208/28a/20】
p.60-61 【最終確認2019.11.5】「慶長一〇年二月 二十四日、徳川秀忠、上洛ノタメ江戸ヲ発ス、千石秀久・石川三長・小笠原秀政・真田信之等、之ニ供奉ス、」として『当代記 三』からの引用のうち、「先陣」の中の一人として、
大番衆 真田左馬助
が見られる。
p.443-445 【最終確認2019.11.5】「慶長十四年九月 是月、真田信之ノ弟信勝、江戸ニ於イテ、近江膳所城主戸田氏鐵ノ弟勝興ニ切ラル」として『慶長見聞録案紙 下』『当代記 五』『寛政重修諸家譜 六』『河原文書』『大鋒院殿御事蹟稿 二十四』から、それぞれの引用がある。
(44-46コマ)
・『信濃史料 第24巻』信濃史料刊行会編・刊 1969 【N208/28a/24】
p.475-476 【最終確認2019.11.5】「寛永四年五月 七日、真田信之、河原久右衛門ヲシテ、同右京亮ノ跡ヲ嗣ガシム」の部分に『河原文書』から、信勝が河原右京亮にあてた書簡が記載されている。
・『信濃史料 第30巻』信濃史料刊行会編・刊 1969 【N208/28a/30】
p.194-195 【最終確認2019.11.5】『長国寺殿御事蹟稿 一』の「真田昌幸、紀伊九度山村の配所に卒すの条」における「高野山蓮華定院過去帳」に、
信勝 真田左馬助、慶長十四年六月十九日終、追号機翁祖全大居士、葬地不詳
昌親 真田内匠
の記載がある。
p.195-199 【最終確認2019.11.5】『真田系譜稿』では、
信勝 左馬助
母者同右
室牧野讃岐守康成女
慶長十四年己酉六月十九日終、
法名機翁祖全大居士
葬地不詳、
牌所信濃國埴科郡松代禅宗真田山長国寺
室
終年月日不詳、
法名葬地不詳
昌親 内匠、蔵人、主計、幼名源五郎
母者同右
室某氏
寛永九年壬申七月二十一日終、年四十九、
法名清涼院殿第安源及大居士
葬地信濃國埴科郡松代禅宗寒松山大林寺、
分骨葬地同國水内郡天台宗善光寺塔頭福祥院
室
寛文七年丁未五月二十七日終、
法名正光院殿和雲性柔大姉
葬地信濃國埴科郡松代禅宗寒松山大林寺、
分骨葬地同國水内郡天台宗善光寺塔頭福祥院
史料ではないが、
・『真田昌幸』 柴辻俊六著 吉川弘文館 1996(人物叢書) 【N289/さなだ】 p.80に
三男 信勝
つぎに三男信勝であるが、生年も母もはっきりせず、言及したものも少ない。左馬助(さまのすけ)と称し、慶長十年(1605)二月に二代将軍秀忠の上洛の折りに大番組(大番組)として供奉したとみえ、同十四年九月には江戸において戸田藩之丞と私闘におよんで憤死したとあるが、出典は確かなものでなく、詳細は不明である。いずれにしても兄二人とは母も異なり、年齢も相当離れていたように思われる。幕臣となっている点からみて、長兄信幸の引き立てがあったものと思われる。
四男 昌親
ついで昌親(まさちか)であるが、『寛政重修諸家譜』に、母は某氏で内匠(たくみ)と称し、三男信親(のぶちか)が別家を興したが、その子が宗家の養子になったので断家とのみ見えるだけで、他に記録はみられない。
とあった。また、
・『真田幸村と真田一族のすべて 決定版』 小林計一郎編 KADOKAWA 2015 【N288/277】 p.250に
三男 昌親
母は不詳。通称は内匠。行動は不明な点が多い。昌親の長男・蔵人(くらんど)、次男・多聞(たもん)の墓は善光寺にあるという。三男※・信親が松代藩主・真田幸道から二〇〇〇石を分知されて幕府旗本となったが、養嗣子に迎えた真田信弘(信就七男)が幸道の養嗣子(ようし)となり(のち五代藩主に就任)、知行を幸道に還付し、断絶した。
四男 信勝
母は不詳。通称は左馬助。妻は牧野康成女。幕府旗本であったと思われるが、慶長十四年(千六〇九)に、他の旗本との間に刃傷事件を起こして逐電(ちくでん)した。同年六月一九日に没。葬地は不詳という。なお、『長国寺殿御事蹟考』は信勝を兄、昌親を弟としている。
とあった。(※四男の誤植と思われるが、そのまま引用した。)
なお、問い合わせがあった時点で、長野市にある真田宝物館【最終確認2019.11.5】を紹介した。
- 回答プロセス
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1 利用者から事前に史料が少ないことを聞いていたので、まず、真田昌幸について書かれたものから三男、四男の概略を調べる。
2 真田家にかかわる文書を収録する『真田家文書』を調べる。
3 『信濃史料 索引』で「信勝」「昌親」を引く。当該箇所を本編で確認していく。
4 『真田町誌 歴史編上』も確認する。
5 史料とは異なるが、一般的な書籍についても、郷土分類N288(家伝)で調べていく。
<調査済み資料>
・『信濃真田氏』丸島和洋編 岩田書院 2014【N288/268】
・『真田一門と家臣』丸島和洋編 岩田書院 2014【N288/269】
・『真田家家中明細書』国立史料館編 東京大学出版会 1986【N280/138】
・『真田昌幸のすべて』 小林計一郎編 新人物往来社 1999【N289/さなだ】
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 8版)
- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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米山一政 編 , 米山, 一政, 1911-1989. 真田家文書 中巻. 長野市, 1982.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001600317-00 (【N208/53/2】p.34) -
信濃史料刊行会 編. 信濃史料 索引. 信濃史料刊行会, 1972.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001230754-00 (【N208/28a/策】) -
真田町誌編纂委員会 編. 真田町誌 歴史編 上. 真田町誌刊行会, 1998.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002682081-00 (【N221/156/2】p.508)
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米山一政 編 , 米山, 一政, 1911-1989. 真田家文書 中巻. 長野市, 1982.
- キーワード
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- 真田信勝
- 真田昌親
- 真田昌幸
- 真田家
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000263651