レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年11月27日
- 登録日時
- 2010/12/23 12:32
- 更新日時
- 2015/03/29 17:53
- 提供館
- 岐阜県図書館 (2110001)
- 管理番号
- 岐県図-1260
- 質問
-
未解決
ミゲル・ミノエスに関する郷土資料はないか。
- 回答
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美濃国出身と推定される17世紀ごろのイエズス会司祭として『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)には記載がある(下記回答プロセス参照)が、所蔵する郷土資料からは関連する記載を見つけられなかった。
- 回答プロセス
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1 県史や郷土関係の人名辞典、岐阜県人物文献索引等を参照するが、記載を見つけられず。
2 Wikipediaの記述で概要を確認。NDL-OPAC、CiNii、Webcat-Plusで関連資料を探すが、いずれも該当なし。
3 カトリック東京大司教区のウェブサイトに掲載されている、高木一雄「ペトロ・カスイ岐部神父の生涯」(東京教区ニュース 228号(2005年12月)~234号(2006年7月)に連載)に記載あり。元和6年 (1618) 春頃、ペトロ岐部らとともにローマに向ったとある。
(http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/rekishi/frkibeb.htm 2010年12月確認)
4 『岐阜・美濃キリスト教百年史』、『尾張と美濃のキリシタン』を参照するが、記載を見つけられず。
5 『日本キリスト教歴史大事典』(教文館,1988 一般:190.3/ニ)に「ミノエス・ミゲル」として項目あり(p.1364)。
-----以下引用-----
ミノエス・ミゲル 1591頃-1628.5.14 日本人イエズス会司祭。外国の史料にあるMinoesは出身地美濃を指すものと思われる。前歴は判明しないが、おそらくセミナリヨ卒業後、同宿になったのであろう。信仰を守るためにインドに逃れ、さらにインドのイエズス会士に勧められてポルトガルに渡り、エヴォラで4年間哲学を学んでM.A.を得た。1621年にローマへ行き、10月16日にイエズス会に入会。修練期間中、ローマのグレゴリアナ大学で神学の勉強を続け、26年司祭叙階。翌年ポルトガルに戻る。28年日本への帰途についたが、乗船したインド艦隊が出航後まもなく台風にあって引返した。その時の後遺症によりリスボンで死亡。ローマ・イエズス会文庫に、日本の布教法と日本人司祭の必要性に関する2通の自筆書簡が残っている。〔文献〕H.チーリスク『キリシタン時代の邦人司祭』1981 (H.チーリスク)
-----引用ここまで-----
※上記で紹介されている文献は所蔵せず。教文館より『キリシタン時代の日本人司祭』のタイトルで改訂版が刊行されている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- キリスト教史.迫害史 (192 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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Wikipedia:ミゲル・ミノエス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%A8%E3%82%B9 2010年12月確認
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000075922