レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年11月20日
- 登録日時
- 2020/12/23 12:39
- 更新日時
- 2021/01/15 13:22
- 管理番号
- 2020-47
- 質問
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解決
十河信二について知りたい。
- 回答
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【資料1】に掲載されている。全文が掲載されている愛媛県生涯学習センターのデータベース「えひめの記憶」より転載。
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7508?keyword=%E5%8D%81%E6%B2%B3
十河 信二 (そごう しんじ)
明治17年~昭和56年(1884~1981)国鉄総裁・西条市長。東海道新幹線生みの親。明治17年4月14日,新居郡中村上原(現新居浜市)で十河鍋作の次男に生まれた。西条中学校・第一高等学校を経て42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。後藤新平の勧めで鉄道院に入り大正元年鉄道院参事,6年2月~7年8月鉄道事業研究のため米国に留学した後,経理局会計課長などを経て12年帝都復興院書記官に出向,大正13年鉄道省経理局長を最後に大正15年退官した。仙石貢満鉄総裁に見込まれて昭和5~9年満鉄理事,10年北支開発の国策会社興中公司の社長に就任して関東軍のパイプ役として絶大な権威を振るい,林銑十郎内閣の組閣参謀を務めたりした。昭和13年社長を辞して帰国,浪人生活に入り,東京犬塚坂下町に郷党子弟の育英施設西条学舎(のち東予学舎)を建て自ら舎監として学舎の一角に起居した。昭和20年帰省中に懇請されて西条市長に就任,食糧増産のため干拓や灌漑池作りを進めたが,在任1年余で公職追放により辞職した。 30年7月,同郷の友人砂田重政らの懇請を受けて「線路を枕に討ち死に覚悟」で第四代国鉄総裁に就任した。この時すでに71歳であったが,以後38年退任まで2期8年余国鉄史上最長の在任を記録した。国鉄の体質改善を図り,東海道線の輸送力の行き詰り打開策として世界に誇る新幹線構想を打ち出したが,常盤線三河島事故や新幹線建設予算の大幅超過の責任をとって38年辞任した。春雷子と号して俳句をよくし,国鉄総裁を去る日「老兵は消えて跡なき夏野かな」の句を残した。38年11月愛媛県県民賞, 39年には勲一等瑞宝章を受けた。昭和56年10月3日97歳で没し,東京中野の宝仙寺に葬られた。
- 回答プロセス
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電話、メールにより高頻度で依頼される利用者で、来館が困難であることが判っているため、できるだけインターネットで閲覧可能な信頼性の高い情報を紹介。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】「愛媛県史 人物」愛媛県 1989 <当館請求記号:K200-31>
- キーワード
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- 十河信二
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000291297