レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年06月14日
- 登録日時
- 2019/07/18 10:18
- 更新日時
- 2019/09/04 14:24
- 管理番号
- 2019-11
- 質問
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未解決
①小田郷の日野氏と、宇摩郡の日野氏とは同系統なのか
②大野氏の幕下である四八家四一両城の城主のうち、長宗我部との戦で討死したものはいるか
③四八家四一両城と長宗我部との間では激しい戦闘が実際に行われたのか
- 回答
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①小田郷の日野氏について
【資料1】p441「日野ノ川村」の項より
「庄屋文書によると、この村の古城は日野城で久万大除城の枝城で、城主は日埜孫六(大野家四拾八家之次第)あるいは日野肥後守(熊大代家城主大野家由来)とする。しかし「大洲旧記」日野々川村の条では西の吉野川村との山境にある古城を伽之城と記し、吉野川では城主を城戸右衛門尉という、それは「城戸何某、日野の川を領して有故、言ならはしたるものか不知」とある。
江戸時代を通じ大洲藩治下にあり、庄屋は日野林氏であったが元禄年中(1688-1704)吉左衛門のとき召し上げられ、後は父野川村(現久万町)庄屋隠居休心に与えられた。休心は茂右衛門と改名、再勤仕したが、その子覚右衛門のとき正徳5年(1715)に断絶、後を大平村庄屋新左衛門が預かり、その子孫が継いだ(大洲旧記)。」
①宇摩郡の日野氏について
【資料1】p64「宇摩郡」の項より
「また同村(新宮村)上山には日野豊田系図で著名な日野豊田家屋敷跡がある。(中略)同氏系図によれば日野氏は、永正八年(1511)に領主として来住したとされる。その後、同氏は小領主(地頭)として栄え、戦国時代には在地土豪、江戸時代には庄屋から本百姓へと推移している」
日野氏の出自について、上記の記述以外は見つからず、同系統かどうか不明。
②について
【資料2】p275~ 「第4章 大除城と大野氏/二 大除城主大野家由来」より
大野氏と長宗我部元親との笹ヶ峠の戦で討死した人々が列記してあり、四拾八家の城主の名前も含まれている。
③について
【資料3】p65~ 「第2編 歴史/第1章 古代・中世/4 大野氏と大除城」より
大野氏と長宗我部元親との笹ヶ峠の戦について、以下の記述がある。
「鎌倉時代から戦国時代の終わりにかけてのおよそ400年間、伊予国の中心となるのは河野氏である。
河野氏の支配する浮穴郡久万郷・小田郷の地は1200メートル以上の四国山脈を距てて土佐国の吾川・高岡の二郡と接しているため、土佐側がよほどの決意をもって侵略して来ないかぎり、安全であった。したがって天下争乱の中にあっても小田郷を持つ日野・林・土居・安持の四家、久万郷の舟草・明神・山之内・政岡・森・立林・菅家・梅木・山下らの一八家も、安らかに所領を治めていた。
それが、幡多郡中村を根拠とする公家一条氏が戦国大名に成長して近隣の土豪たちを配下に繰り入れてくると平和は破られた。土佐側から国境線を越えてしばしば侵略、小ぜり合いが行われるようになってくる。
河野氏はこれを防ぐため、郷民の希望にこたえて明神村に大除城を築いた。(略)久万・小田郷ではこの大除城を中心に30余の支城を要所要所に作って、土佐勢に備えた。
土佐国にも主力の交替があった。天文8年(1539)に長岡郡岡興に生まれた長宗我部元親は長ずるにしたがってしだいに鬼才を発揮し、永禄7年(1564)には土佐の中央部を支配していた本山氏を滅ぼして、久万郷に接する吾川郡の南部一帯をその手中におさめるに至った。
その威力はとうてい一条氏の比ではなく、名家一条氏の滅亡も近いと思われた。
破竹の勢いの元親が目指すものは土佐一国の支配から、さらに四国の統一である。これに対する伊予の河野氏は衰亡の一路をたどっており、とうてい久万・小田郷民の安全は期せられない。小田郷の四家、久万郷の八家らは相談の上、勇猛のほまれ高い喜多郡宇津の城主大野直家を大除城に迎え入れてその指揮を仰ぐことになった。
直家はまた朝直とも呼ばれ、大除入城の年月は明らかでないが、大除三代といわれるように直家・利直・直昌と三代にわたって久万小田の地を守った。直昌のとき、天正13年(1585)の春に主家湯築城の河野通直が元親に降参し、8月には豊臣秀吉の四国征伐を受けて元親とともに通直も降参したので大除を開城した。(略)
河野氏について記した「予陽河野家譜」というものを見ると、天正2年(1574)に長宗我部元親と大除城主大野直昌との間に笹ヶ峠の戦というものがあったことが記されている。笹ヶ峠は今日の大野ヶ原であるといわれる。
直昌の弟に喜多郡菅田城主大野直之という者があったが、これがひそかに土佐の元親と手をにぎって主家筋の湯築城主河野通直に叛いたので、河野は五千余騎の兵を送って直之を攻めた。
(略)
突如として草むらの茂みから土佐方の伏兵二百余人が鬨の声を上げて、久万山勢めがけて攻撃して来た。
(略)不意をつかれた直昌方は、それでも応戦の態勢をとって防戦に努めたが、土佐方の術中に陥り、直昌の弟東筑前守はじめ七十余人のくっきょうの武士たちが相次いで討死するという大損害を受けた。しかし流石に大野直昌は知勇兼備の将であった。一族の尾首掃部・尾崎丹波・土居式部・日野九郎左衛門らと力を合わせて勢力を挽回して土佐勢を切り崩し、相手方の死傷も八十余人に及んだ。ついに甫見江坂の東まで土佐勢を追い散らし、勝鬨をあげたというのである。」
上記の文章は、http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/58/view/13432?keyword=%E5%9B%9B%E6%8B%BE%E5%85%AB%E5%AE%B6で閲覧可。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『愛媛県の地名』 下中邦彦/編 平凡社 1980 <当館請求記号:K290-54>
- 【資料2】『久万町誌資料集』久万町誌編集委員会/編 [1969] <当館請求記号:K293.5-3>
- 【資料3】『面河村誌』 中川鬼子太郎/編纂 愛媛県上浮穴郡面河村 1980 <当館請求記号:K293.5-9>
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000258814