レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年4月4日
- 登録日時
- 2019/04/12 13:40
- 更新日時
- 2019/07/25 12:25
- 管理番号
- 2019-1
- 質問
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解決
『愛媛県史 人物』主な参考文献一覧に
(1)上掲『十卋盛卋君伝記』外
(2)岩越二郎『本県考古界に遺せる故犬塚又兵氏の足跡』
(3)神谷葵水『考古学者であった犬塚甘古先生』
以上3点の文献の記載があり、この3点の出典について教えてほしい。
- 回答
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いずれも当館に所蔵はないが、当館所蔵の【資料1】p1~13に掲載されている「愛媛考古学の創始者・犬塚又兵と横地石太郎」(西田 栄/著)の中で、次のように紹介されている。
p3~4
甘古先生の詳細は、同氏の長男一貞氏の「十世盛正君伝」にあるが、荘内藩(山形県鶴岡市)の番頭犬塚甚七郎盛鷹の長男で幼名を甚太郎・甚之助・又兵衛などといい、のち又兵と改むるとある。実名は前掲伝記の題名の如く盛正と呼ばれ、盛政・守政とも記される。天保9年(1838)3月1日生まれ。藩校致道館の句読師となり、戌辰の役(1868)には参戦負傷したという。明治18年(1885)福島に出て師範学校、中学校などに勤め、明治29年4月横地松山中学校長の許に来県し、松山地域での考古学的研究の業績は既述通りであるが、松山在任中の同僚渡部『政和先生追想録』に、甘古得意の隷書で座右銘「自反而縮雖千萬人吾往」の麗筆が収載されている。なお号はほかに椿園・蘭沢・極楽園などがあったと上記「盛正君伝」に見える。
p3
なお、犬塚又兵教諭は岡崎市愛知第二師範学校(現愛知学芸大学)へ、前記同氏報文にもある通り明治32年5月転任したが、同地でも書道教師としてのほかに、同市の北野廃寺の調査などを行い、その業績は、後日の石田茂作博士の廃寺研究に示唆を与えたと伝えられる。(註2)
p13 (註2)神谷葵水 考古学者であった犬塚甘古先生「岡崎師範書道教官系譜考」 1981『藤華』4号所収
P4
福島における奥羽人類学会地方委員として、また岩磐史談に見える「犬塚先学の足跡」報告を通しても。(註3)
P13(註3)岩越二郎 本県考古界に遺せる故犬塚又兵氏の足跡『岩磐史談』第3巻1~4号 福島 昭12~13(1937~1938)所収
また、当館は松山中学校の校友会誌を所蔵しており、目次情報をweb公開している。犬塚又兵と思われる箇所も複数あるので参考まで。
https://www.ehimetosyokan.jp/contents/ehime/hokeikai.htm
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 【資料1】『愛媛考古学10』 愛媛考古学協会 1988 <当館請求記号:K209-8-10>
- キーワード
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- 犬塚又兵
- 横地石太郎
- 岩越二郎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 学生
- 登録番号
- 1000254943