レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013/12/25
- 登録日時
- 2015/02/14 00:30
- 更新日時
- 2015/02/14 00:30
- 管理番号
- 6001007066
- 質問
-
解決
俳人 松瀬青々について
①昭和12年高師浜で急逝となっておりますが、晩年高師浜へ転居したいきさつを知りたい。
②「濱の秋 和歌三神に 灯をあぐる 青々」の句碑が高石神社の境内に建立されているが、この句の解説がほしい。(昭和34年4月19日建立)
- 回答
-
(【 】内は、当館の請求記号です。)
①青々が晩年、高師浜に転居したいきさつは、下記のとおりです。
・『大阪春秋 第16号』 1978 【雑/2499#】
p107 「青々、高師の浜の十年」青木茂夫
「高師の浜へ住居を移したのは、昭和二年十月、青々この時五十九歳である。大正三年三月に長男菊弥が死ぬ。四月、長女梅子が死んだ。九年に三女桃子が死に、十二年に、・・・妻とめが糖尿病の再発で死んだ。残ったのは次女百合子と次男吉春であるが、当時、中学生であったその次男吉春の体がすぐれない。青々は、そこでこの子どもの命を守ろうとして、空気のよい、高師の浜の松林の中に住むことにした。」
『倦鳥 第26巻第3号(青々先生追悼号)』1927 【雜/126#】
p.86-89 「清明を待つ間に」高師浜 松瀬吉春
「父の六十九年の生涯は決して楽なものではなく可なり苦闘的なものであったらしい。それには境涯の不遇もあったが大きな原因は子を育てる苦労であった。父は私の兄と姉二人を亡ひ、後の遺った百合子と私の二人を如何しても育て上げねばならぬと云ふ必死の努力を続けて一家の中心を専ら體の弱い私の健康の為に集注して空気の悪い海老江より常盤通りに居を移した。・・・不便な高師濱に居を移したのも全く私の健康を案じての事であったらしい。」
②句碑についてですが、句の解説書の類では見つけられず、以下のものに解説らしきものがあるのみでした。
『大阪の俳蹟』飯田正一著 大阪俳文学研究会 1971 【226/567/#】
p.160 「青々句碑 社殿の前にある。御影石(高さ170㎝、横36㎝、厚さ35㎝)。浜の秋和歌三神に灯をあぐる 青々 (裏)昭和三十四年四月十九日/松瀬敏純・黒田百合子建之 青々は晩年この地に住んだ。和歌三神は、人麿・赤人・衣通姫(「和訓栞」)、住吉大明神・玉津島神・柿本人麿(「三才図会」)等、諸説がある。」
なお、『評伝松瀬青々』青木茂夫著 俳句研究社 1972 【911.36/939N】は貸出中のため、確認できていません。
[事例作成日:平成27年1月19日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
『日本近代文学大事典』第3巻人名(に~わ) p.243~244
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000167687