レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/03/24
- 登録日時
- 2015/02/14 00:30
- 更新日時
- 2015/02/14 00:30
- 管理番号
- 6001006980
- 質問
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未解決
稲富正直について知りたい。
- 回答
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残念ながら、詳しい人物像を記した資料類は見つけることができませんでした。
その中で、似た記述ながらも若干の記載があったのは以下の3資料です。
(【 】内は、当館の請求記号です。)
・『寛政重修諸家譜 第9』 P378
「正直 喜大夫 母は某氏
慶長十一年めされて台徳院殿(秀忠)につかへたてまつり、十八年上総国にをいて六百五十石の采地をたまひ、十九年大坂御陣のとき供奉し、仰によりて備前嶋より大筒の鉄砲をよび石火矢をもつて城中の櫓陣屋等をうち破り、御感をかうぶり御料の御裁つけをたまふ。元和元年同心十人をあづけられ、夏御陣にも供奉す。七年御上洛のとき扈従し、のち日光山に詣でたまふにしたがひたてまつり、九年三月七日死す。年四十八。法名宗鐵。牛込の松源寺に葬る。のち代々葬地とす。妻は鈴木長吉郎某が女。」
・『干城録 第2』 P27
「正直、慶長十一年より台徳院殿(秀忠)に仕え奉り、(寛永譜)同十八年、上総国にをいて六百五十石の采地をたまハり、(寛永譜・家譜)同十九年、大坂冬御陣に供奉し、仰をうけて備前嶋(摂津)より大筒の鉄砲をよひ石火矢等を城中へ放ちかけけれハ、矢倉ならひに陣屋なと多くこれか為に打破られ、城中の騒動大方ならす。台徳院殿(秀忠)ふかく御感悦ましまして(寛永譜・大坂記○按するに武野燭談にハ、一夢が事跡とす。されとも死後たれハ正直にかく。)御料の御裁つけをたまふ。(家譜○按するに、裁つけ馬具の事にや、またハ今の袴やうのものにや詳ならす。原文のままにしるす。)元和元年の夏御陣にハ同心十人をあつけられて供奉す。同七年、御上洛の時、また日光山(下野)に詣させ給ふとき、あるひハ鷹狩等にしたかひ奉らすといふ事なし。同九年三月、四十八歳にして死す。法名宗鉄といふ。」
・『寛永諸家系図伝 第7』 P81
「喜大夫 生国同前(※丹後を指す) 慶長十一年、はじめて台徳院殿(秀忠)につかへたてまつる。同十八年、上総国にをひて領地をたまふ。同十九年、大坂御陣に供奉。時に仰をうけたまはりて備前嶋(大坂)より大筒の鉄砲をよび石火矢等をもつて城中へはなちかく。ここにをひて城中矢倉ならびに陣屋おほく打破る。故に城中のものども騒動す。台徳院殿御感悦あり。元和元年、同心十人あつけられ大坂御陣に供奉。同七年、御上楽に供奉。其外或は日光御社参あるひは御鷹狩の供奉。懈怠なく是をつとむ。同九年三月七日に病死。歳四十八。法名宗鉄。」
その他、戦国時代、近世等の人名事典類をあたりましたが、残念ながら稲富正直についての記載は見つかりませんでした。
また、すでにお調べのように大坂の陣関連の資料には、砲撃した旨の記載があるのみでした。
以下の資料には「稲富流砲術」の流祖・稲富一夢については述べられているのですが、一夢の甥にあたる正直についての記述は見つけられませんでした。
・『砲術 -その秘伝と達人-』安斎/実∥著 雄山閣出版 1965【585/183/#】
・『火縄銃』所/荘吉∥著 雄山閣出版 1989【585/335/#】
・『日本武道全集 第4巻 砲術・水術・忍術』今村/嘉雄∥編者代表 人物往来社 1966【588/175/#】
最後に、稲富家の文書類が存在するのか、あるいは所蔵している機関があるのかどうかも調査しましたが、こちらも手がかりを見つけることができませんでした。
[事例作成日:平成27年1月14日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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『カラーで読む大坂冬の陣・夏の陣』」PHP研究所
『大坂の陣』(歴史群像シリーズ40)学研
『砲術家の生活』雄山閣
- NDC
- 参考資料
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- 寛政重修諸家譜第9続群書類従完成会 (P378)
- 干城録第2林/亮勝∥校訂人間舎 (P27)
- 寛永諸家系図伝第7[太田/資宗∥ほか編]続群書類従完成会 (P81)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪,人物・団体
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000167673