『図説日本洋装百年史』p.148によると「高島屋がマネキンの最初であり、三越はファッション=ショー(用語)の最初であった」とされる。三越をはじめ、昭和初期のファッション・ショーを巡る状況については以下の通りである。
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三越のファッション・ショー(昭和2年(1927))以前
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①『図説日本洋装百年史』p.148によると、明治末期頃から三越呉服店ではその年の流行色や模様を学者・芸術家などと共に考案し、大正年代になると、これを「染織逸品会」と銘打って宣伝していた。また、白木屋呉服店でも新作発表会を行い、昭和になると会がいたるところで行われ、和服界をにぎわしたとある。
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三越のファッション・ショー(昭和2年(1927))
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①『図説日本洋装百年史』p.148、②『日本婦人洋装史』p.409、③『日本洋服史 1』p.245によると、三越百貨店6階ホールで昭和2年9月21日から23日まで行われた三越染織逸品会主催のファッション・ショーが、用語として用いられた最初とされる。水谷八重子らの女優に染織逸品会の新衣装(和服)を着せて舞踊をさせ、②『日本婦人洋装史』p.409によると、フランス人の婦人デザイナーも招かれていたようである。
当時の様子は、④1927年10月発行の雑誌『三越』17(10)のp.18-19に「三越フアツシヨン・シヨー」として6点のモノクロ写真と記事が掲載されている。
記事には「九月二十一日より二十三日まで三越ホールに於いて、フアツシヨン・シヨウとしまして水谷八重子、小林延子、東日出子の三嬢が懸賞当選裾模様図案の衣裳をつけて、浅妻、道成寺、蓬莱等の舞踊をお目にかけました」とあり、モノクロ写真にはそれぞれ次のような解説がある。
・一等当選裾模様の衣裳をつけた水谷八重子嬢。(正面・背面2枚))
・二等当選裾模様の衣裳をつけた東日出子嬢。
・八重子嬢の「道成寺」の舞台面。
・日出子嬢の「蓬莱」の舞台面。
・三等当選裾模様の衣裳をつけた小林延子嬢。
また、①『図説日本洋装百年史』p.148によると、同年に「洋装界最初のファッション・ショー」を同じく6階ホールで開催しており、その時の写真と思われるものが⑤『三越のあゆみ』p.33に「昭和初年のファッションショー」として掲載されている。なお、⑥『写真でみる日本洋装史』p.187では同じ写真を「わが国初めてのファッションショー(三越)昭和二年九月」と解説している。
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昭和2年(1927)以降
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②『日本婦人洋装史』p.410によると、昭和4年(1929)5月に上野松坂屋が新装の講堂で「ファッションレヴュー」(図版p.116に写真あり)と「モダーン・バザー」を開催した旨、昭和5年(1930)には「ドロシー・エドガースの斡旋により、百貨店連合のファッション・ショーが開かれた」(飯島祥邦談話))旨が記されている。
「その後、婦人服発表会と展示会は百貨店の年中行事となり、百貨店の集中する日本橋・銀座は、ファッションの中心地となった」。
松坂屋については①『図説日本洋装百年史』p.148で、前述の三越の洋装界最初のファッション・ショー(昭和2年)におくれて「アンニー=フランス女史の婦人洋服陳列会について、エリアナ=パウロバ女史のショーが七階ホールで開催された」とも書かれている。
また、⑦『読売新聞』昭和8年(1933)3月22日9面の「新装の高島屋一巡記」という記事では、ホール開きでファッション・ショーを開催した旨が、脚本演出、振付などをした人物名や写真と共に掲載されている。
①『図説日本洋装百年史』p.148によると、「いずれも、今日からみれば小規模にすぎないものであって、盛大なショーはそれよりおくれて昭和八年、大辻司郎司会による、ドロシー=エドガース企画のものが最初であった」とされる。⑧『流行うらがえ史』p.96-97には「日本におけるショウの草分け」として紹介されており、越水金治、筒井光康などが企画に賛同し、会場が朝日新聞社の5階講堂であったこと、当時のモデル周旋所が昭和4年に山野千枝子が設立した「マネキンクラブ」であり、料金が一日8円だったことなどが記されている。
⑨『読売新聞』昭和13年(1938)7月20日7面の「時代の転変に悩むデパート 新分野の開拓へ“全盛時代は去った”」という記事では、当局の統制によって「デパートの生命ともいふべき」ファッション・ショーが取り止めになったことが記されている。