レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年08月07日
- 登録日時
- 2011/11/22 16:15
- 更新日時
- 2012/02/21 15:45
- 管理番号
- 埼熊-2011-111
- 質問
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未解決
秩父皆野の浅見一族の遠祖に当たる藤原直英(ふじわらなおひで)が、藤原氏のどの系列に属し、どの時代の人か知りたい。名前が記されている系図があれば教えてほしい。
- 回答
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藤原直英について、記述のある資料は見つからなかった。
◆藤原氏関係を調査
『系図纂要 別冊2 名諱索引 新版』(名著出版 1997)
「画引索引」の〈直〉の項より、
p467〈直英〉の項あり。藤原姓(浅見姓)の項目なし。
『藤原氏族の姓氏事典』(千葉琢穂編 展望社 1987)
p63〈阿佐美〉の項あり。「伊周流有道氏族。有道後裔阿闍梨実信の子三郎遠広は武蔵国児玉領に住し、阿佐美をもって家号とす。」直英について、記述なし。
『藤原氏族系図 4/5 合併号』(千葉琢穂編著 展望社 1989)
p277「有道伊行流(10)系図 系図58 阿佐美」があるが、直英の名なし。
p278 有道伊行流(11)系図 系図59 「阿闍梨実信 正応4 5月寂」「阿佐美 遠広 三郎 徳治元・七・十七死」「三郎太郎 行広」
『埼玉苗字辞典 3(ス-ノ)』(茂木和平著 茂木和平 2007)
〈藤原 フヂワラ〉の項に以下の記述あり。
「百済族の集落を葛原(フジワラ)と称し、藤原の佳字を用いる。(中略)秩父郡下日野沢村藤原」
「10 [秩父郡]上日野沢村(皆野町) 寛保三年香具仲間連盟長に日野沢村藤原鳥蔵。国神神社明治34年碑に上日野沢村藤原鳥蔵あり。現存無し。」
「11 [秩父郡]下日野沢村(皆野町)小名藤原あり。旧家にて三戸現存す。」
『姓氏家系大辞典 1 ア-カ』(太田亮著 角川書店 1981)
p91〈浅見〉の項「4 藤姓 佐州諸役人帳に藤原姓として浅見氏を載せたり。児玉党なるべし。」とあり。
◆「佐州諸役人帳」を調査
『新潟県史 資料編 9(近世4 佐渡編)』(新潟県編集 新潟県 1981)
p98- 延亨三年四月佐渡地役人の先祖書 浅見角右衛門の名と記述はあるが(p115)、直英には繋がらず。
《日本銀行金融研究所貨幣博物館 デジタル資料室》(http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/digital.htm 日本銀行 2011/11/16最終確認)
「佐州地役人分限由緒書 下」 目次に「浅見」あり。
「佐渡相川の歴史 資料集 2」(新潟県佐渡郡相川町 1973)
県内所蔵なし。佐渡市立図書館、新潟県立図書館あり。(佐渡市立図書館に立ち寄った職員が確認)
p542「浅見弥右衛門 元祖角右衛門嘉俊 本国近江、佐々木京極高清之幕下、京極没落以後浅井備前守長政ニ与力浅見対馬守俊孝、其子対馬守俊成、其子出雲俊信、其子角右衛門嘉俊、慶長九辰年当国江渡海、翌年並び高之通被下御奉公相勤、寛永12亥年四月五日卒、夏月浄清」
「角右衛門嘉俊→角右衛門泰屋→角右衛門知光→角右衛門信清→弥右衛門常言」
浅井長政はもと藤原氏-大江氏(『藤原氏族系図』p198)
同資料に「佐州諸役人並町道心牢守御船水主姓名書」もあり。
「藤原姓 浅見弥左衛門」とあり。それ以上のことは記述なし。
◆児玉党阿佐美氏を調査
『埼玉叢書 2』(稲村坦元編 国書刊行会 1970)
p267-298 武蔵七党系図に、直英の名なし。
『埼玉叢書 4』(稲村坦元編 国書刊行会 1971)
p1-57 武蔵七党系図
p26「児玉党 有道氏 元藤原」とあり。
p38阿左美氏(弘方)、p42阿左美氏(実家)系図あり。前後に藤原姓、直英の名なし。
『武蔵七党児玉党に就いて』(金鑽俊雄著 金鑽神社奉賛会 1959)
「児玉党分布見取図」に浅見弘方の名があり、それにつながる名に「藤原ト称ス」とあり。
p4「一説には、藤原伊関[関の字のように見える]妾腹の子有道遠峯武蔵に下り…」とあり。
『武州下浅見誌』(中英夫著 中英夫著書刊行会 1985)
p86-91 阿佐美(浅見)太郎実高の居館跡
直英について記述なし。
p91注に「児玉党の始祖惟行の父は刑部丞惟広の次男で惟能といい、藤原伊周に仕えていた人です。」とあり。
『軍記武蔵七党 下』(川又辰次編 川又タケヨ 1985)
p384-389「阿佐美(浅見)氏 児玉党」 直英の名なし。
『白石家・浅見家文書目録 近世史料所在調査報告 9』(埼玉県立浦和図書館編 埼玉県立浦和図書館 1973)
この資料の浅見家は児玉郡神泉村下阿久原名主。
p214「寛保2年(1742)の水害により伝存の記録類を失った」「家伝によると阿久原牧を経営した児玉党の祖有道氏の子孫である阿左美氏の流れを汲むといわれ」とあり。
『児玉町史史料調査報告 中世 2 武蔵七党児玉党関係史料集』(児玉町史編さん委員会編 児玉町教育委員会 1988)
p9「児玉氏」 直英の名なし。
p15「浅見氏」 直英の名なし。
『埼玉の苗字 名前風土記』(大沢俊吉著 さきたま出版会 1983)
p37-28「児玉党」 直英の名なし。
p125-126「浅見さん・阿佐美さん・阿左美さん」 直英の名なし。
『埼玉苗字辞典 1、2』(茂木和平著 茂木和平 2004-2006)
〈有道 アリミチ〉の項、直英の名なし。
〈児玉 コダマ〉の項、直英の名なし。
『続群書類従 5 上 系図部』(塙保己一編 太田藤四郎補 続群書類従完成会 1959)
p213-246 有道氏
p235-236 弘方の父は長家「元弘三年十一月二十日如元可為藤原氏由被宣下。武者伺候之時[者に、]被書藤原長家畢。」とあり。長家の子宋栄は修理進伊賀守。
『秩父阿左美家の歴史』(秩父阿左美家の歴史刊行会 1993)
p15-24「阿左美家の出自と中世の秩父の歴史」
「阿左美家の菩提寺である大通院の26世住職・大久保堅瑞(元駒沢大学教授)が調べた「阿左美伊賀守畧系図」が残されている。」とあり。
一部が表記されているが藤原直英の名はなし。「(略)庄五郎弘方((略)秩父郡日野沢に退居して阿左美氏を称す秩父阿左美氏の祖)-従五位下太郎左衛門実高-治部小輔景家・・・・・・左馬助正勇-伊勢守玄光-伊賀守慶延」
※・・・・・の部分は、「点線のところは何代かを略したもの」とあり。
◆日野沢村(皆野町)を調査
『武蔵国郡村誌 7』(埼玉県編 埼玉県立図書館 1954)
〈下日野沢村〉の項、p174 字地「藤原(ふちはら)大神の西に連なる東西八町南北六町」とあり。
『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1980)
p1402 下日野沢村に小字「藤原(フジハラ)」あり
p727〈ひのざわむら〉江戸初期の村名は日野沢村。「元禄年間頃に上日野沢村・下日野沢村に分村」とあり。
明治22年上日野沢・下日野沢の2か村が合併して日野沢村成立。
p459〈しもひのざわ〉はじめ幕府領、安永2年下関宿藩領、天明3年再び幕府領、享和2年からは旗本牧野氏の知行。
p271〈かみひのざわ〉はじめ幕府領、明和2年から旗本松平氏の知行。
『皆野町誌』(皆野町 1988)
p303 児玉党は皇族ではないが、平安時代中期の摂政藤原兼家の長子関白道隆を祖としている。
p431 日野沢村名主は、横瀬根古屋城主阿左美伊賀守の子孫が土着して、日野沢郷士阿左美十左衛門を世襲して、村民も各代官役所も別格の扱かいをしてきた。
p475 嘉永3年、阿左美十左ェ門が名主職、大神の高橋家に奪われた腹いせの出来事である。出典日野沢村誌とあり。
『新編武蔵風土記稿 8』(歴史図書社 1969)
p615 秩父郡之十四 舊家者里正十左衛門の項あり。
『日野沢村誌 1』(日野沢村誌編集委員会[編] [埼玉県立浦和図書館(製作)] [1985])
藤原直英に関する記述なし。
p2-3 「日野沢村誌序説」に以下の記述あり。
「しかも、高松落城後将士の多くが村内に帰農し、とりわけ豪士阿左美家が例外的な高い格式を獲得したことによって、村の勢力は強く固いものとなった。」
「即ち、阿左美は既に農民の階層から上昇して、一面武士的であると共に金融家である。」
p80 「水泉寺と阿佐見氏との関係を考えると、寺の開基は阿左美伊賀守慶延となっている。いま、村の阿左美氏の家系を見るに、先祖は鉢形北條氏に属し、阿左美伊勢守玄光という。(中略)天正十八年鉢形落城の後伊賀守息朝見左馬助幼年にて日野沢村に隠れ居り民間に下りて郷士となれり。」とあり。
地名の由来について
p10-36「村の地名研究」
p14「藤原(ふじはら) 藤原の名義は文字の示す如く藤の原の意と解すべく、開発前原野にふじの叢生していたことによって生じた自然地名であるかとみられる。」とあり。
- 回答プロセス
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その他、調査済み資料は以下のとおり。
『新編埼玉県史 別編4 年表・系図』(埼玉県 1991)
『埼玉県秩父郡の全名字』(千秋社 1995)』(秩父阿左美家の歴史刊行会 1993)
『埼玉県の地名 (日本歴史地名大系 11)』(平凡社 1993)
『埼玉県地名誌』(北辰図書 1969)
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 藤原 直英(フジワラ ナオヒデ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097085