レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年04月09日
- 登録日時
- 2016/01/28 11:38
- 更新日時
- 2016/05/19 11:42
- 管理番号
- 埼熊-2015-174
- 質問
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未解決
奈良から安土桃山時代における熊谷市内の四方寺(シホウジ)の歴史が知りたい。
- 回答
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下記の資料に歴史に係る記述があり、これを紹介した。奈良から安土桃山時代は不明である。
『熊谷市史 前篇』(熊谷市史編纂委員会編 熊谷市 1963)
p81 新編武蔵野風土記稿に記載されている地名「四方寺 前、北、新田」
p102「第四節 郷名の変遷と所属」に「四方寺村 古くは忍庄忍領に属し、代官の支配する処であったが、寛永一〇年(一六三三)旗本長井清太夫の采地とし、明治維新にまで及んだ。以後の所属県ならびに合併村の変更前村に仝じ。」
p214「幡羅郡 本郡は原(はら)郡と読み、中部で八郷を領有して、郷名の幡羅は本郡郡家の所在地である。続日本紀、承和元年(八三四)二月の条は、幡羅郡荒廃田一二三町歩を冷然院に充てたことが見えている。本郡中後世下秦の一郷は、埼玉郡に入り、また、幡羅、広沢のニ郷の西部も榛沢郡に入った。」
- 回答プロセス
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1 地名を調査する。
『埼玉県地名誌』(韮塚一三郎著 北辰図書 1969)
p349「四方寺」の項によると、「四方寺は古くは忍庄忍領に属し、「成田分限帳」に載する四方寺勘六の在所とみられる。四方寺の名義は明らかではないが、寺名ではないであろう。(後略)」
p543「四方寺」の補遺を掲載。「山中襄太氏は「四方寺という寺があったからか、仏教で四方四仏とて、東西南北四方の代表的四仏がある。(中略)四方田は四方寺の寺領でもあったのか」と述べている(「地名語源辞典」)。」の記述あり。
『熊谷の地名と旧跡』(熊谷市立図書館美術郷土係編 熊谷市立図書館 1993)
p55「四方寺 由来・名義」の項には、「埼玉県地名誌」の引用が掲載されている。
p123「四方寺」の項には、四方寺内の小字が列記されている。
『熊谷地名稿 1 大字篇』(熊谷市立図書館編 熊谷市立図書館 1977)
p25「四方寺 由来・名義」の項には、「埼玉県地名誌」の引用が掲載されている。
『熊谷地名稿 2 小字篇』(熊谷市立図書館編 熊谷市立図書館 1978)
p60「四方寺」四方寺内の小字と小字の由来が列記されている。
2 地誌を調査する。
『大里郡郷土誌』(下田江東編 聚海書林 1983)
p278-288「四方寺村」に、徳川時代以前のことついて、前述の「成田分限帳」に掲載されている四方寺勘六の記述あり。
『新編武蔵風土記稿[第3期] 第11巻』(蘆田伊人編集校訂 雄山閣 1977)
p217-218「四方寺村」に前述の「成田分限帳」に掲載されている四方寺勘六の記述あり。
『武蔵国郡村誌 10』(埼玉県編 埼玉県立図書館 1954)
p300-303「四方寺村」に前述の「成田分限帳」に掲載されている四方寺勘六の記述あり。
『埼玉県市町村誌 13』(埼玉県地域総合調査会〔編〕 埼玉県教育委員会 1978)
p94「近世の領有関係及び町村制施行までの行政区画」「四方寺村」があるのみ。
3 四方寺勘六に関する調査
『埼玉苗字辞典 2』(茂木和平著 茂木和平 2006)
p3900「四方寺」には、前述風土記稿により、「成田分限帳」に掲載されている四方寺勘六の記述があるのみ。他の史料については紹介されていない。
4 《Google マップ》(https://maps.google.co.jp/ Google 2015/04/09最終確認)を〈四方寺〉を検索、出てきた地図を確認すると四方寺のエリアに「湯殿神社」があり。
『埼玉の神社 大里 北葛飾 比企』(埼玉県神社庁神社調査団編 埼玉県神社庁 1992)
p115「48 湯殿神社」「氏子 四方寺は、熊谷市の郊外の農業地域で、江戸時代には家数もニ〇戸ほどの小さな村であった。」
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本 (291 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
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- 『熊谷市史 前篇』(熊谷市史編纂委員会編 熊谷市 1963)
- キーワード
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- 四方寺(シホウジ)
- 熊谷市-歴史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 地名
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187628