レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年11月29日
- 登録日時
- 2013/01/25 14:41
- 更新日時
- 2013/03/21 14:03
- 管理番号
- 埼熊-2012-231
- 質問
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解決
昭和13年4月13日、川端康成、横光利一、片岡鉄兵の3人が田舎教師の足跡をたどって旅行をした際、栗橋のいなり屋という料亭で食事をとったとの記述がある。このいなり屋は現存しているのか。もしなければ、現在そこがどうなっているのか知りたい。
この旅行のことは、片岡鉄兵が雑誌「文学界 昭和13年6月号」に書いている。
- 回答
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栗橋のいなり屋(稲荷屋・いなりや)は、『久喜市栗橋町史 民俗3 町場と農村の暮らしと信仰 』の記述によると、廃業しているようである。また、跡地は利根川橋近くの河川敷あるいは川の中に入ってしまっているようである。関連の記述のあった、以下の資料を紹介した。
〈稲荷屋〉関連資料
『久喜市栗橋町史 民俗3 町場と農村の暮らしと信仰 』(久喜市教育委員会 2011)
p13「川魚料理屋」の節に、「第二次世界大戦以前には、利根川沿いに多くの店舗が軒を並べていた船戸町に、稲荷屋という近在では知られた川魚料理屋があった。(中略)河川改修により移転を余議なくされ、廃業に至った。」とあり。
松島あや子「利根川と稲荷屋」(『田舎教師研究 5』p26-27 田舎教師研究会 1981.9)
「(略)最終的に栗橋町の建設省工事事務所に行って、たづねましたら、昭和19年堤内に入れるか、取りこわしかということになり、(中略)五霞村近くに夜四号国道を引いて移築した事がわかりました。」「五霞村といっても四号国道と125号線の分かれ目の処です。」
「稲荷屋の建物もニ三ヶ月前こわされたと聞き年月の流れをひしゝと感じました。(昭和56.1.19日稿)」とあり。
『田舎教師』関係資料を調査
『田山花袋』(小林一郎著 創研社 1969)増補版。初版は1963年
p223-225 花袋が愛好した栗橋の稲荷屋について記述あり。
p224 〈いなり屋〉の地図あり。「現在はすっかり河の中に入ってしまい跡かたもない」「現在ではその後の河川工事も重なって、そのよすがを見るよしもないのは当然である。」「大正13年頃に吉田正(故人)に譲り渡したのである」「現在は当時より河下1,000米位の五霞村に通じる道の側に移転し、正の子忠氏がやっている。」とあり。
『『田舎教師』の周辺 上』(宮崎利秀著 きたむさし文化会 1974)
p204(『田山花袋』小林一郎著の引用に続いて)「「栗橋の鯉料理で有名だった稲荷屋」は、現在ではとっくになくなってしまい、利根川の川原の一部になってしまっている。」とあり。
- 回答プロセス
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『田舎教師』関係資料を調査
以下の5点に、「いなり屋」「稲荷屋」の名は確認できるが、現在の様子につながる情報はなし
「文学的紀行」(『田舎教師研究 3』 田舎教師研究会 1980.4) *「文学界 昭和13年6月号」掲載を再録。
「一日の行楽」(『田舎教師研究 2』p34-37 田舎教師研究会 1979.8)
「栗橋の川魚料理」(『田舎教師研究 2』p34 田舎教師研究会 1979.8)
「利根川と稲荷屋」(『田舎教師研究 5』p26-27 田舎教師研究会 1981.9)
「文献紹介 栗橋の半日」(『田舎教師研究 7』p44 田舎教師研究会 1985.9)
栗橋河岸関係資料を調査
『栗橋町の歴史と文化財』(栗橋町文化財保護審議調査委員会編 栗橋町教育委員会 1982)
p188 明治末期の河岸通りの地図あり。「いなりや」あり。現在の様子について記述なし。
電話帳・人名録等を調査
『埼玉県営業便覧』(田口浪三〔ほか〕編 埼玉新聞社出版局 1977)*明治35年刊の複製
栗橋 p7(船戸町)に「料理店旅舎 稲荷屋 菅沼友吉」とあり
『埼玉苗字辞典 3』(茂木和平著 茂木和平 2007)
p4190〈菅沼 スガヌマ〉「七 同郡栗橋宿 明治9年副戸長菅沼久兵衛・天保8年生。明治30年人名録に旅舎稲荷屋菅沼友吉嘉永5年生あり。3戸現存す。」とあり。
『都道府県別資産家地主総覧 埼玉編』(渋谷隆一編 日本図書センター 1988)
p87「栗橋280番地 菅沼友吉」とあり。
(「埼玉県南埼玉・北葛飾二郡公民必携名家鑑」柴田勇之助,新堀豊三郎編(明治30年刊 国立国会図書館蔵)の複製部分)
『ハローページ企業名 春日部・加須・久喜版 ’12.8』
久喜市を〈いなりや〉で調査するが該当なし
『タウンページ 春日部・加須・久喜版 ’12.8』
「旅館」及び「料理・仕出し」を久喜市〈いなりや〉で調査するが該当なし
『田山花袋』(小林一郎著 創研社 1969)の五霞村に通じる道に移転したとの記述より調査 ※記述なし
『日興の住宅地図 栗橋町 大利根町 1977』(日興商事出版部 [197-])
『ゼンリン住宅地図 栗橋町 [1994]』(北九州 ゼンリン 1994.7)
『田山花袋』(小林一郎著 創研社 1969)の「大正13年頃に吉田正(故人)に譲り渡した」との記述より調査
『埼玉県事業場総覧』(埼玉労働基準局編 埼玉県事業場総覧刊行会 1950)
p536-538〈栗橋町〉に、「稲荷屋」なし。「料理店業 好多屋 吉田志な 栗橋町△△」あり。ただし、吉田正、忠氏との関係は不明。
電話帳を〈稲荷屋〉〈吉田〉で調査 ※「吉田」という名のつく料理割烹があるが、「稲荷屋」との関係は不明。
『埼玉県電話番号簿 昭和24年12月1日現在』(埼玉県電気通信部編 埼玉県電気通信部 1950)
「稲荷屋」「いなりや」「菅沼」なし。「吉田」(呉服洋品類のみ)
『埼玉県電話番号簿 東部版・西部版合冊 昭和37年10月1日』
p112-114 「稲荷屋」なし。「吉田志な(料理割烹) □□ 福寿」あり。
『埼玉県職業別電話番号簿 昭和38年6月15日現在』
p586〈料理飲食 北葛飾郡〉の項、「稲荷屋」なし。「吉田屋 □□(栗橋町福寿△△)」あり。
『埼玉県電話番号簿 東部版 昭和38年10月1日現在』
p251-253 「稲荷屋」なし。「吉田志な(料理割烹)□□ 福寿」あり。
『職業別電話帳 埼玉県中央版 昭和54年9月3日』
p797〈料理屋 栗橋町〉の項、「稲荷屋」なし。「吉田屋 栗、栗橋△△ 2-○○」あり。
『50音別電話帳 埼玉県中央版 昭和54年9月3日』
p875-886〈栗橋町〉の項、「稲荷屋」なし。
p886「吉田志な(料亭) 2-○○ 栗橋△△」あり。
『ハローページ 久喜・加須 1990年6月-1991年10月』
「稲荷屋」なし。
p250 「吉田志な(料亭) 52-○○ 栗橋△△」あり。
※これ以降のハローページには「稲荷屋」、「吉田志な」ともなし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本文学 (910 9版)
- 商業 (670 9版)
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 参考資料
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- 『久喜市栗橋町史 民俗3 町場と農村の暮らしと信仰 』(久喜市教育委員会 2011)
- 『田舎教師研究 第5号』田舎教師研究会 1981.9)
- 『田山花袋』(小林一郎著 創研社 1969)
- 『田舎教師』の周辺 上』(宮崎利秀著 きたむさし文化会 1974)
- キーワード
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- 埼玉県
- 久喜市-歴史
- 田舎教師
- 田山 花袋(タヤマ カタイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000127406