レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年09月09日
- 登録日時
- 2011/12/02 10:52
- 更新日時
- 2012/02/17 14:00
- 管理番号
- 埼久-2011-072
- 質問
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解決
「幡羅郡」(現埼玉県熊谷市西北)の漢字表記(または読み)の変遷と背景について、明治22年の町村制施行が関係しているのか知りたい。
- 回答
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以下の図書に「幡羅郡」の漢字表記(または読み)の変遷と背景について記載あり。明治22年の町村制施行に伴う変遷については確認できなかった。
『埼玉県地名誌 名義の研究 改訂新版』(韮塚一三郎著 北辰図書 1977)
p337-338「幡羅郡(はら)」の項に記述あり。
p354-355「幡羅村(はたら)」の項あり。
『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店 1988)
p682ー683「幡羅郡」の項あり。
「(前略)もとは「はら」と訓み、「はたら」と訓むようになるのは近世以降、初見は「続日本後紀」
〔古代〕武蔵国分寺献進瓦に「「播羅」「播」などの字が見えるが、文献上の初見は「続日本紀」(中略)「武蔵国播羅郡荒廃田」とある記事。
「和名抄」では「原」と訓じているいるので「はら」とよんでいたと思われる。
〔中世〕寿永2年2月27日の源頼朝寄進状によれば「武蔵国波羅郡内■尻(みかじり)郷」が鶴岡八幡宮に寄進されており(鶴岡八幡宮文書)また正長2年12月8日の鎌倉公方足利利持氏教書にも、「武蔵国波羅郡別符郷」とあるので(別府文書)、「波羅郡」と書かれることもあったことが知られる。一方、天正7年3月11日の聖護院門跡教書には「武州原郡」とも書かれている(長慶寺文書/武文)。また深谷市国済寺にある応永年中の鐘銘に「大日本国関東道武州路幡羅郡深谷庄」とあり(銘記集)、深谷庄が幡羅郡に属していたことが知られる。」
『大日本地名辞書 6 坂東 増補』(冨山房 1978)
p504に「幡羅(ハラ/ハタラ)郡」の項あり。
『埼玉県の地名』(平凡社 1993)
p101-103「幡羅郡(はらぐん)」の項あり。
「「和名抄」にみえ、訓は東急本に「原」、名博本に「ハラ」とある。古代・中世には播羅・波羅、原と書かれることもあり(「続日本後紀」「源頼朝寄進状」鶴岡八幡宮文書など)近世から近代にかけて旛羅と記されることが多かったが、幕府作成の郷帳には幡羅とある。また近世後期以降ハタラとよばれていたようであるが、近代の公的な呼び方は「ハラ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 『埼玉県地名誌 名義の研究 改訂新版』(韮塚一三郎著 北辰図書 1977)
- 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』(角川書店 1988)
- 『大日本地名辞書 6 坂東 増補』(冨山房 1978)
- キーワード
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- 熊谷市-地名
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000097377