レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
提供館 (Library) | 埼玉県立久喜図書館 (2110009) | 管理番号 (Control number) | 埼浦-2007-056 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
事例作成日 (Creation date) | 2007/06/20 | 登録日時 (Registration date) | 2007年09月21日 02時12分 | 更新日時 (Last update) | 2007年10月03日 16時03分 | |||
質問 (Question) | 明治時代初期に埼玉県内で一般的に食べられていた納豆は、どのような種類か。 | |||||||
回答 (Answer) | 明確な記述のある文献は確認できず。関連記述のある文献を回答プロセスに挙げるが、すべて「糸引き納豆」に関する記述で、「塩辛納豆」についての記述はなし。 ※回答プロセスの文献から推測すると、「糸引き納豆」については、ほぼ自家製で消費され、都市部では専業業者も現れていたようだが、「塩辛納豆」についてはわからなかった。 | |||||||
回答プロセス (Answering process) | 関連記述のある文献 『納豆沿革史』(全国納豆協同組合連合会 1975)p191-192に「納豆風土記-埼玉の土竃(へっつい)納豆」として、味噌豆を煮た土竃の余熱で作る製法の説明が、p213・219に埼玉の郷土納豆の製造法として「ヘッツイ納豆」、「逆桶納豆」が図入りで紹介されている。いずれも大豆を藁苞に詰めて発酵させる製法。p49-50には、江戸末から明治の状況として下記の記述あり。 ・江戸時代の江戸ではザルで作ったザル納豆の行商が中心 ・明治3年栃木県大田原の笹沼某が東京で藁苞(ワラツト)につめた苞納豆を売り出した ・明治になってザル納豆の行商は廃れ、藁苞につめた苞納豆が普及 ・藁苞納豆はかなり昔から東北、九州、京都、関東で作られていた ・明治32年には東京に専門業者4人で月産5石、苞約1万5千本を出荷 『納豆大全!』(小学館 1997)p68には、上記「明治3年~」の記述の出典となったと思われる「宮藁雑記」(国会図)所収の「納豆考」の引用が掲載されている。 インターネット情報 ひしや納豆(行田市)のPDFファイル( http://www.plus-kun.com/html/shinsou/hishiya.pdf ひしや納豆 2007/06/20最終確認) 「明治9年に埼玉県内では一番に納豆の製造を始めた」との記述あり。 その他納豆に触れられてはいたが、該当の記述がなかった資料 『新編埼玉県史 別編1 民俗1』p267「豆腐」の項 『聞き書埼玉の食事』p164-165、p252に半農半商と商家の事例はあるが、自家製造の記述なし。 『納豆 原料大豆の選び方から販売戦略まで』(農山漁村文化協会 2002)p28 納豆の沿革史。 『大豆から納豆へ』p152 納豆の沿革史。 『事物起源辞典 衣食住編』(東京堂出版 1983)p287「納豆」に関する記述。 『古事類苑 39 飲食部』(吉川弘文館 1971)p871-874「納豆」に関する記述。 『埼玉事始』『事物起源選集 2 明治事物起原』(クレス出版 2004)『「明治」を知る本』『明治・大正家庭史年表 1868-1925』『明治考証事典』『明治世相編年辞典』『ビジュアル・ワイド 明治時代館』 また、埼玉資料の雑誌記事索引『埼玉雑索』〈納豆〉では該当なし。 | |||||||
事前調査事項 (Preliminary research) | ||||||||
NDC |
| |||||||
参考資料 (Reference materials) |
| |||||||
キーワード (Keywords) |
| |||||||
照会先 (Institution or person inquired for advice) | ||||||||
寄与者 (Contributor) | ||||||||
備考 (Notes) | ||||||||
調査種別 (Type of search) | 事実調査 | 内容種別 (Type of subject) | 郷土 | 質問者区分 (Category of questioner) | その他 | |||
登録番号 (Registration number) | 1000037687 | 解決/未解決 (Resolved / Unresolved) | 解決 |