レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016/08/09
- 登録日時
- 2016/10/08 00:30
- 更新日時
- 2016/10/29 14:37
- 管理番号
- HC-16080919
- 質問
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解決
裏高尾町に「摺指」(するさし)という地区名があるが、バス停は「摺差」。どちらが正しいのか。また、どうして違うのか。
- 回答
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由来を確認するため、『八王子地名考』(1986年 かたくら書店 )を見たところ、p.115に「摺差」で、焼畑を行っていた地名ではないかと推察が載っています。なお、文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌である『新編武蔵風土記稿』に地名が載っているということであったので、『大日本地誌大系 11』(新編武蔵風土記稿 第5巻)(1996年 雄山閣)のp.231を見ると「摺差」で載っていて、古い地名だとの記載があります。
次に『八王子事典』(2001年 かたくら書店)を見ると、p.403に「摺差」で、裏高尾町の旧小字・大字名と載っています。なお、その次項に浅川小学校の前身の一つとして「摺差学校」があげられていました。なお、『浅川小学校百年のあゆみ』(1974年 浅川小学校百年祭協賛会)には摺差学校の記載は見つけられませんでしたが、児童用の『百周年記念誌』(1975年 八王子市立浅川小学校)p.8には明治9年の文部年報に「摺指学校」が載っていたとあります。また、p.52には在校生の話が載っていて「摺指」に家が三十三戸あったとの記載があります。そこで、いつから「摺指」に変わったのか確認するため、いくつか地図をあたったところ、『明治前期・昭和前期東京都市地図 4』(1996年 明治前期・昭和前期東京都市地図 4 )のp.54、p.232の大正10年の地図には「摺差」で載っています。そしてp.234の昭和28年の地図には「摺差」と「摺指」が並んで載っています。そしてp.56の昭和41年の地図には「摺指」のみで載っています。また、『八王子の空襲と戦災の記録 総説編 』(1985年 八王子市教育委員会 )の附図、「八王子の空襲被災概図」には第二次世界大戦時の被災の様子を示すために昭和20年当時の市町村区域を再現していますが、そこには「字摺指」と載っています。地図によると当時は浅川町だったようなので、『昭和はじめの浅川町』(1989年 八王子市教育委員会 )に昭和初期の記録が載っており、p.187の住宅の様式を調査した一覧に「摺差」の地名がみえます。以上の事から、古くからある地名は「摺差」だったと思われますが、明治の初めごろにはすでに「摺指」も使っていて、昭和20年代あたりで「摺指」になっていったと推察されます。なぜ変わっていったかは文献が見つけられませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- オセアニア.両極地方 (297 8版)
- 参考資料
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- B11280228 八王子地名考 鈴木樹造/著 かたくら書店 1986 291.365
- B11441612 大日本地誌大系 11 雄山閣 1996.6 291.08
- B11716715 八王子事典 八王子事典の会/編 かたくら書店 2001.1 291.3 4-90623-778-9
- B11702230 百周年記念誌 八王子市立浅川小学校記念誌編集員会/編 八王子市立浅川小学校 1975 37
- B11433789 明治前期・昭和前期東京都市地図 4 清水靖夫/編集 柏書房 1996.3 291.36 4-7601-1226-X
- B11238834 八王子の空襲と戦災の記録 総説編 八王子市郷土資料館/編集 八王子市教育委員会 1985 213.65
- B11699085 昭和はじめの浅川町 八王子市郷土資料館/編 八王子市教育委員会 1989 20
- キーワード
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- 摺差
- 摺指
- 裏高尾
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 庁内
- 登録番号
- 1000197938