レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年01月24日
- 登録日時
- 2014/12/27 19:38
- 更新日時
- 2024/01/19 14:17
- 管理番号
- 横浜市中央2417
- 質問
-
解決
明治期の横浜のビールの歴史について調べている。
山手68番、山手123番、山手46番にあったビールの醸造所やビールラベルに関する
資料はないか。
- 回答
-
関係資料をご紹介いたします。
1 横浜のビールの歴史について
それぞれのビールの醸造所について、次の記載が確認できました。
山手68番 ヘクトが作った醸造所ヘクト・ブルワリー(後にババリア・ブルワリー)
山手123番 コープランドが作ったスプリング・バーレー・ブルワリー
山手46番 ゼゼクレーのつくった醸造所ジャパン・ブルワリー
各資料の記載内容は次のとおりです。
(1) 『ビールと文明開化の横浜 コープランド生誕150年記念』
キリンビール株式会社/編 キリンビール 1984年
明治期の横浜のビールの歴史について、ラベルなどの写真も多く、もっともまと
まっている本です。
p.10「山手123番に個人経営のビール醸造所を立て、スプリング・バーレー・ブル
ワリーと名づけた。」
「相前後して同じ山手でビールづくりをはじめたジャパン・ブルワリー(46番)や
ヘクト・ブルワリー(68番)は、お雇い醸造人まかせであった。」という記述が
あります。
p.18「スプリング・バーレー・ブルワリー ビール醸造所」という項目で工場の歴史
などについて述べられています。
p.23「開業広告」で「山手68番地所在の休止中の醸造所を持主のノルドヘイ
ク・ヘクトより借り、ババリア・ブルワリーを開設」と記載があります。
p.24「内外への目配り」で「山手48番(ジャパン・ブルワリー)」と「68番の醸造所
(ヘクト・ブルワリー)」と記載があります。
p.61「お雇い外人 ビール醸造技師」でジャパン・ブルワリーの醸造技師について
記載があります。
他の箇所にも横浜のビールの歴史について多くの記載があります。
(2) 『ビールと日本人 明治・大正・昭和ビール普及史』麒麟麦酒株式会社/編
三省堂 1984年
p.63「横浜麦酒の東京請売一手捌所」内
p.65で「横浜山手六十八番にあったババリア・ブルワリーで、ドイツ人E・ウィーガン
トが醸造していたビールを販売したが翌一八七六年(明治九年)六月以
降は、初めの広告にあるように、米国人W・コープランドとE・ウィーガントの
二人が共同経営を始めた山手一二三番のスプリング・バーレー・ブルワリー
で醸造されたババリアン・ビールを売捌いていた。」と記載があります。
(3) 『日本のビール 中公新書』稲垣真美/著 中央公論社 1978年
※こちらの資料では、前述の「ヘクト」のカタカナ表記は「ヘフト」となっています。
(p.19記載の英標記:A.N.Hegt.)
p.13 「コープランドの登場」でスプリング・ヴァレー・ブルワリーについて書かれています。
p.17-25には、スプリング・ヴァレー・ブルワリーだけでなく、山手68番と山手46番の
醸造所について記載があります。
p.18-19「横浜で最初にビール醸造所があったのは、山手四十六番地であり、コ
ープランドのスプリング・ヴァレー・ブルワリーのほかに、ヘフトの経営したもう一つの
醸造所が山手六十八番地にあったことがはっきりする。」
p.19「山手四六番地千百九十七坪の土地を百四十三ドル余で取得したのは、
ゼゼクレーというイギリス人である。
従って、このイギリス人が、千坪を越える敷地内に、何らかのビール醸造設備をつ
くったのであろう。」
(4) 『日本の技術 10』第一法規出版 1989年
p.35「4 ヨコハマのコープランド」
コープランドのプロフィールやスプリング・バーレー・ブルワリーについて簡潔にまとまって
います。こちらの情報源は1の(3)で紹介しました『日本のビール』と書かれています。
p.35には次の2つの記述があります。
「ウイリアム・コープランドは米国籍。山手居留地の四区画、一二三番を含む二
四八〇坪の借地権を得て、湧水のある谷の醸造所、スプリング・バーレー・ブルワ
リーでビールをつくり始めたのは、明治二年(一八六九)という。」
「横浜で開業した最初のビール工場は、山手四六番にあり、この土地を取得し
たのは、英国人ゼゼクレーである。
ゼゼクレーは英国流の上面発行によってビール製造を試みたであろうが、まもな
く醸造を止める。
次いで、コープランドが、スプリング・バーレー・ブルワリー(「清水谷醸造所」とよば
れていた)を始める。
第三の醸造所は、山手六八番にヘフトが開く。(中略)ヘフトはラガービール醸造
のためにエミール・ヴィーガントというドイツ人醸造家を雇う。」
(5) 『多満自慢石川酒造文書 第6巻』多仁照広/編 霞出版社 1994年
p.920より「神奈川県のビール業と日本麦酒」があります。
(6) 『横浜市史稿 産業編』横浜市役所/著 横浜市役所 1932年
p.665「第十二節 麦酒醸造業」の項目があります。
スプリング・バーレー・ブルワリーがジャパン・ブルワリー・カンパニーになり、麒麟麦
酒になるまでのいきさつが書かれています。
(7) 『キリンビール Big Business series』現代企業研究会 1962年
p.21-「二 創業五十五年の歴史」内
「1 麒麟の歴史は日本のビール史」
「2 日本ビール界の黎明期」
「3 麒麟麦酒の夜明け前―ジャパン・ブルワリーの設立」で
スプリング・バレー・ブルワリーについて記載があります。
スプリング・バレー・ブルワリーはキリンビールの前身です。
(8) 『横浜・中区史 人びとが語る激動の歴史』中区制50周年記念事業実行
委員会/編著 中区制50周年記念事業実行委員会 1985年
p.611-614でビールについて記載があります。
p.611で「コープランドの事業も継承され、製品は「騏麟ビール」と命名された。
年間三千石(約九五、○○○ガロン)ではあったが「横浜ビール」として有名とな
り、 あらそって愛飲する人が多かったと言う。」とあります。
p.614には天沼のビール会社とビール井戸の写真があります。
(9) 麒麟麦酒株式会社五十年史』麒麟麦酒株式会社/編集 麒麟麦酒
1957年
p.1-「第一編 麒麟麦酒株式会社の前身」内
「第一章 スプリング ヴァレー ブルワリー」でスプリング・バレー・ブルワリーの歴
史について記載があります。
(10) 『日本のビール 横浜発国民飲料へ』神奈川県立歴史博物館/編
神奈川県立歴史博物館 2006年
p.12-「第一章 ビールの開拓者たち」でスプリング・バレー・ブルワリーについて簡
単な説明があるのと同時に写真やラベル、手紙などの写真が数多くあります。
また、p.32-35には「国内外ビールラベル貼り込み本」として様々なビール会社の
ラベルが貼られた巻子本の写真がありますが、その中に龍ビールのラベルを見つけ
ることは出来ませんでした。
巻末に参考文献がついています。
(11) 「ビール醸造設備発展の系統化調査5」
http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/058.pdf
「産業技術史資料情報センター」(http://sts.kahaku.go.jp/index.php)内の資
料です。
「2.2 ビール産業の夜明け」でスプリング・バレー・ブルワリーについて記載があります。
2 ラベルについて
(1) 『ビールのラベル』サッポロビール博物館/編著 クレオ 1998年
15のラベルがスプリング・バレー・ブルワリーのラベルです。
(2) 『日本のラベル 明治大正昭和 紫紅社文庫』三好一/著 紫紅社 2010年
p.33-68で「ビール」の項目があります。
p.33「ジャパンヨコハマブルワリー」
p.34、p.36「バヴァリアブルワリー」
p.35「スプリングヴァリーブルワリー」
p.37「ゼジャパンブルワーカンパニー」(キリンビールのことです)のラベルがあります。
(3) 『麒麟麦酒株式会社五十年史』麒麟麦酒株式会社/編集 麒麟麦酒
1957年
1の(9)で紹介した資料です。
p.244-「ビール銘柄一覧表」内p.247に「りゅう」の表記が異なる「竜ビール」につい
て記載があります。
経営主は「久野」で長門に存在していました。
「横浜ビール」であれば、横浜本牧で渋谷留三郎(留五郎)を経営主に作られ
ていたと記載があります。
「ビール醸造設備発展の系統化調査5」の「明治・大正時代のビール銘柄一覧」
の情報源です。
3 横浜麦酒について
横浜ビールの関連として、横浜麦酒についても調査しました。
(1) 『開港五十年紀念横浜成功名誉鑑』森田忠吉/編 横浜商况新報社
1970年
経営主の渋谷留三郎について記載があります。
「横浜市立図書館デジタルアーカイブ 都市横浜の記憶」
https://archive.lib.city.yokohama.lg.jp/museweb/
資料を探す>書名等に「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」と入力して検
索>資料名をクリック>本体PDF画像で本文が閲覧できます。
330コマ目に渋谷留三郎の名前と説明があります。
(2) 『多満自慢石川酒造文書 第六巻』多仁照広/編 霞出版社 1994年
1の(5)で紹介した資料です。
p.920「神奈川県のビール業と日本麦酒」内p.926に次の記述があります。
「もうひとつは、渋谷留五郎の横浜麦酒である。横浜麦酒の商標登録は明治
二十八年であるから、明治二十六年度からひとつ増加するビール醸造所は、
この渋谷留五郎のものと考えてよいだろう。渋谷留三郎は、原籍は久良岐郡本
牧村であるが、寄留地は横浜居留地九十七番館で、ここに醸造所が設置され
ていたものと考えられる。また、明治二十九年十月、横浜の岩田亀蔵や松本竹
次による横浜麦酒(株)の設立計画があり、ドイツに技師や器械の注文をする
準備がなされていると報じられているが、これは実現しなかったものと思われる。」
(3) 『大日本麦酒株式会社三十年史』浜田徳太郎/著 大日本麦酒 1936年
「一、麦酒の起源と発達」内
p.167「一二 大黒麦酒と櫻麦酒其他」内p.168に「横浜麦酒(渋谷留三郎
経営)」と記載があります。
また、こちらのp.89には「一 川本幸民とコプランド」p.158には「一〇 麒麟麦
酒株式会社」の記載があります。
ちなみに1の(8)で紹介した『横浜・中区史 人びとが語る激動の歴史』
p.611で「コープランドの事業も継承され、製品は「騏麟ビール」と命名された。
年間三千石(約九五、○○○ガロン)ではあったが「横浜ビール」として有名と
なり、あらそって愛飲する人が多かったと言う。」とありますが、これは渋谷氏の
横浜麦酒とは異なります。
(URL最終確認日:2023年12月26日)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 食品工業 (588 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000165527